国語 [教育]
国語教育は、本来の目的が高度でありすぎるために、いつの間にかとんだ方向違いに流れがちなのである。それはたとえば、次のようなお門違い教育である。
●道徳教育になりがちである。~略
●文学的感性の教育になりがちである。 ~略
●子供に、大人好みの感じのいい子のふりを強要しがちである。~略
●国語は非常に感覚的な科目で、論理性や合理性はなく、考えても無意味だと感じさせてしまう。~略
はじめてわかる国語
清水 義範 (著) , 西原 理恵子 (イラスト)
講談社 (2002/12)
P35
「ある国民の特性はその国語に習熟することによってのみ学ぶことができよう。
国語はその国の魂に内在するすべてを含んでおり、それ故にそれぞれの国にとって最上の投影法なのである。
「甘え」の構造 [増補普及版]
土居 健郎 (著)
弘文堂; 増補普及版 (2007/5/15)
P21
フランス憲法では「フランスの国語は、フランス語である」と明確に定められている。日本の憲法に「日本の国語は、日本語である」という条文がないのは、見方を変えれば、日本が日本語を国語として定める必要がないから。
「日本では日本語があたりまえ」と私を含め日本人の多くが考えているのは、言葉を奪われた歴史がないからだろう。
「英語第2公用語論」が出てくる心理には「英語を話せる人はエライ」という、明治時代からのコンプレックスがあるのではないだろうか。
~中略~
昔、習った小学校の国語の教科書に、アルフォンス・ドーデの「最後の授業」があった。プロシア(今のドイツ)に占領され、フランス語を話すことを禁じられたアルザス地方の物語。
いままで学校が嫌いで授業をサボろうとしていた男の子が、ある朝、いやいや学校へ行こうとする。すると村人が言う。
「お前、今日は学校へ行ってもしかたないよ。今日は授業がないんだ」
不思議に思いながらも学校へ着くと、いつもと違う雰囲気。長年ここで教えてきた先生が悲壮な顔で最後の授業を行なっていて、教室の後ろには村人たちの姿もある。
少年は生まれて初めて真剣に授業に取り組む。そうすると今までわからないと思っていた授業が頭に入るではないか。しかし、もう明日からはフランス語の授業はないのだ。最後に先生が黒板に「フランス万歳!」と書いて、遅刻してきた少年を叱ることなく教室をでていく。~中略~
幸か不幸か、こんな経験のない日本では母国語が粗末にされている。アメリカに占領されたことはあったが、寛大なアメリカ人に「英語を話せ」とは言わなかった。
ただただ、ラッキーであったと言うしかない。
一度も植民地になったことがない日本
デュラン れい子 (著)
講談社 (2007/7/20)
P116
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