疾病の説 [養生]
病者自身にありては、病のために悲観に陥り意気の銷沈に陥るは、万々やむをえぬことではあるけれども、余り多く自意識を使って想像的に主観的に苦悩するよりも、寛やかな心を有し、のびのびとした考を懐き、天もしくは神、仏、もしくは運命というが如きものを信じて委順して行くのが最もよろしいので、最勝者の存在を認めずとも安心を得る人はそれでもよいのである。
疾病は人の免れぬものである以上、たまたま疾病を得たとて然(さ)のみ急に驚くべくも愁うべくもない訳である。
生命ある以上はむしろ疾病を予想すべきであって、そしてその予想に本づいて、第一には病に罹らざるを力め、第二には病に罹った時如何にすべきかを考えて置くべきことである。
病に罹らざるを力むるには、第一に自己の健全ならんを力め、次いで自己の近親者及び他人の病まざらんのことを力むべきであるが、自己一個の力を以ては自己をすら完全に保護することの出来ぬのが人間の真相であり実際であるから、病に罹らざることを力むるにも単独的にするよりも相互的にせねばその目的は達せられぬ。
~中略~
世間に体質の良好なるがために健康を保ち得て幸福に生活して居る人も甚だ多かろうが、良い妻、良い夫、有り難い父母、優しい兄弟、孝行な子女のために健康の幸福を得て居る人も何程あるか知れない。長寿の人を観るに孝行順孫を有して居る人が多い。
(明治四十四年十一月)
努力論
幸田 露伴 (著)
岩波書店; 改版 (2001/7/16)
P149
「仏は医王なり」という言葉がありますが、仏は医者の王である、と申します。
これは仏が衆生の心を医すこと、ちょうど医者が病人を救うが如きものであるから、仏を医王というと思っていたが、そうではない。
昔、人智の発達しない時、人間が精神ばかりではない、肉体も疾病に悩んで、せんすべも知らなかった。そこに釈迦を始めとして祖師たちはいずれも皆まずもって本当に医者であった。その次には社会問題の解決者であった。医者であり、薬師如来であり、観世音菩薩であったのです。
その仏医経に「人が病気を得るのに十因縁がある」といって、十箇条目を列挙しております。まことに守りやすい平明なことです。
第一、「久座食わず」ということ。 これは山林仏教のことで、現代の我々に「久座食わず」というようなことはありませぬ。
「久労不食」の世になりました。あるいは「不時而食」(不規則な食べ方をすること)に改めるとよいでしょう。
第二、「食不貸」。たらふく食うこと、なんでもいつでも食うことです。~中略~
第三、「疲極」。ある程度以上に疲れてはいけない。肉体的ばかりではありませぬ、精神的にもそうです。~中略~
第四、「淫佚(いんいつ)」男女の欲ばかりでなく、すべて享楽の度を過ごすことです。
第五、「憂悶」。我々は憂悶すると、生理的にもいろいろの反応を生じ、有害なことは申すまでもありません。この頃の医学は身心の相関関係をよく解明してきました。
第六、「瞋恚(しんい)」。目に稜(かど)立ててて恚(いか)るということは善い人でも案外家庭などでありがちです。~中略~
第七は「上風を制すること」。第八は「下風を制すること」。
上風はあくび、おくび。下風は屁であることは申すまでもない。~中略~
第九、「忍小便」。第十、「忍大便」
安岡正篤
運命を創る―人間学講話
プレジデント社 (1985/12/10)
P211
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