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渡来して来た人たち [日本(人)]

   ところで日本へ稲作が渡来するのと、越が呉をほろびおして江南の地に国家を形成したときとほぼ時期が同じようであり、越の勢力範囲は華南の海岸一帯から、浙江省、福建省、広東省、江西省からベトナムにわたっており、竜を崇拝し、入墨をおこない、米と魚を常食とする海洋民族の国であるというから、漢民族とは系統を異にするものであろう。
この民族に属する一派が倭人ではなかったかと考える。
そして舟または筏を利用して、朝鮮半島の南部から北九州へかけても植民地を作ったのではないかと考える。そして倭と邪馬台国とは一応区別して見てゆくべきものと思う。
そのことは「旧唐書」「日本国伝」に次のように記されているのがひとつのてがかりになる。
~中略~
そして倭というのは、倭人によって日本列島の西部につくられた植民地ではなかったかと考える。その倭人たちは、東南アジアの海岸から北上して来た海洋民ではなかったと、「論衡(ろんこう)」や「後漢書」「魏志」を通して考えるのである。

日本文化の形成
宮本 常一 (著)
講談社 (2005/7/9)
P52  

TS3E0342 (Small).JPG到津の森公園

P55
 このように朝鮮半島南部に南方から沿岸沿いに来て植民した倭人を、日本側からは任那といったのではなかろうか。そして任那という言葉も御魚(まなま)という言葉から来たのではないかということが、「風土記]逸文(摂津の国)と思われる記事の中に見えている伝承から考えられる。
~中略~
 このようにして朝鮮半島を経由して、大陸内部から日本列島へ渡来する人びとの前に、南の海から日本列島へ渡来して来た者も多かったと見られるのである。そしてこの人たちのもたらしたものが、弥生式文化ではなかったかと考える。
つまりこの文化は東アジアの沿岸伝いに日本列島にもたらされたもので、海洋性の強いものであるとともに、稲作をもたらした。しかもその稲作には鉄文化が付随していた。それがまた構造的な船を造るのに大きな役割を果たしたと考える。
 倭人が朝鮮半島と九州の両方に植民地を作ったことは、大陸と日本列島との往来関係を密接にし、大陸の文化が朝鮮半島を経由して比較的スムーズに流入するようになった。
~中略~

 一方、日本列島へ稲作が普及していく速度も速かった。それはひとつは水路を伝って船を利用してひろがっていったものではないかと考える。

P51
「魏志」には弥生文化後期時代の日本列島のありさまが記録されており、「日本書紀」は奈良時代人の眼で律令国家形成への過程を反省しているのである。
しかも律令国家を形成していく手動力になった者は、どうやら縄文文化人たちの後裔でもなければ、稲作をもたらした者でもないようである。それらの人びとは土蜘蛛であるとか、国樔(くず)であるとか、海人(あま)などとよばれており、北の方に住む者は蝦夷とよばれているのである。
このような人びとを統一して国家を形成したのは、あらたに海の彼方から強力な武器を持って渡来して来た人たちであったと考えられる。

P72
 関東以北に住む者を蝦夷とよび、それ以外の地方に住む者を国樔、土蜘蛛などといっていた。
これは中央政府に属する人びとのよび方であったが、そういうよび方をした人たちはむしろ大陸から高い強力な文化と武力を持ち、国家を統一した人びとではないかと考える。
そして、われわれもいつの間にか、そういう人たちの見方にまねて物を見るようになってしまっているのであるが、もっとひろい視野で日本の文化を見直す必要があるのではなかろうか。


いま在日韓国・朝鮮人は六十七万人だが、うち半数が関西に住む。大阪府下は十八万余で、実に全国の三割に近い。
中でも大阪市生野区に多く、同区の全人口十五万五千のうち四万人を占める。四分の一である。先祖の高度な技術で橋を架けた旧猪飼野に特に多いのも因縁である。
この人たちもほとんどは、あの古代の朝鮮半島とをつなぐ水路を大阪へ来た。大阪湾岸は、昔から解放された国際都市であった。
大阪人がそれをあまり意識しないほど、その共生は当たり前のことである。古代には、このあたりは大陸からの渡来人であふれていたのだ。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P114


P183
飼飯(けひ)という普通名詞は、猪(ぶた)などを飼ふこととという意味であることは、ほぼまちがいない。
「時代別国語大辞典」(上代編)の「け」(食)の項をひくと、「飼は(中略)飯を伴って、ケヒを写すのに用いられている」というから、要するにぶたなどを飼うということであろう。
 ぶたは、上代、朝鮮半島からの渡来人の渡来の波の密度が濃かったところ、摂津に猪飼野(猪甘(いかひ))や伊勢に猪飼という上代以来の地名がのこっているように、ところどころで飼われていたらしい。
 越前敦賀に、「気比(けひ)ノ松原」という、浦の白い砂を松のみどりでうずめつくしている松原がある。
その越前のケヒの松原とこの淡路のケヒの松原とは、コトバとして何かつながりがあるのであろうか。
 この敦賀湾というのは上代から平安期にかけて、朝鮮半島からその北部の大陸(渤海国)よりやってくる渡来人あるいは国使の航路の終着点であり、敦賀付近(だけではなく北陸一帯)に渡来人集団が定着していたということは、いまではほぼ異論のないところであろう。
敦賀ノ浦は、「日本書紀」の「垂仁紀」に、もともと「笥飯浦(けひのうら)」とよばれていたとある。淡路のこの「飼飯」も「笥飯」と書かれたりするから、普通名詞としては、気比、飯飼、笥飯は同じコトバなのであろう。
淡路の場合、こんにちの応神陵や仁徳陵から想像される古代河内王朝の食糧供給地であったことはたしかだから、いまは慶野松原(けいのまつばら)とよばれる地も、食用の動物を飼っていた野であったのであろうか。

P195
 中国大陸に興って熟した大文明は。ひとつの特徴として、海を渡って島嶼(とうしょ)へゆくことをおっくうがったということがある。
 中国大陸人は海岸で漁撈することをきらったし、また島へ渡って島で住むこともきらった。
 たとえていえば、中国大陸の南部に接して台湾というあれだけ大きな島がありながら漢民族の農民の移住がはじまるのはやっと十七世紀になってからで、海南島にいたってはそれ以後である。
 それからみれば、日本列島は、やや幸いしている。紀元前に稲作を知る民族が渡海してきたし、その後、何世紀か経って、製鉄という古代における最高の技術を持ったひとびとが渡ってきて大いに農耕生産をあげ、ついには古墳を築くという土木事業をおこせるまでになった。
これらの渡来人流入は、日本の島々が水が豊富で稲作の適地であるうえに、マラリアのような風土病がないということが、朝鮮半島をふくめた東アジアの沿岸地方に、古代的な情報としてつたわってからであろう。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)


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