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釈迦の仏教と大乗仏教 [宗教]

P137
 釈迦がインドで仏教を創ったのは今から二五〇〇年くらい前だが、それ以前のインドは、絶対神を認める世界だった。その世界では、様々な神が人々の崇拝の対象として現れたが、やがてそれは、ブラフマンという名の神を頂点とする独特の世界観へと収束していって、釈迦が生まれた頃の時代には、そのブラフマンが、世界最高神としてあがめられていた。そういう宗教世界をバラモン教と呼ぶ。

P141
こういった、バラモン教の権威を否定しようという、あらたな宗教者たちの一群は、一括して「沙門」と呼ばれる。
そして、釈迦こそが、その沙門集団の代表選手なのである。釈迦は、いろいろ考え得る修行の中でも、その方向性を「精神の修練に」一本化した。肉体的な苦痛には意味を認めなかったのだ。したがって、仏教は「ひたすら瞑想する宗教」となったのである。
 以上の歴史的経過からみて、仏教は、本質的に絶対者を認めない宗教だということが分かるだろう。

P142
 我々を支配したり救ってくれたりする絶対者の存在を認めないということは、「助けてください」と言ってお願いする相手がいないということである。これは大乗仏教国である日本の状況とは全く違う。
佐々木 閑

生物学者と仏教学者 七つの対論
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)
ウェッジ (2009/11)

生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書)

生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書)

  • 出版社/メーカー: ウェッジ
  • 発売日: 2009/11/01
  • メディア: 単行本

 

IMG_0034 (Small).JPG大正屋椎葉山荘

P78
どこにも助けてくれる者がいないから、「一切はすべて苦」なのである。そんな絶望的な状況で「それでも苦を脱する方法があるか」と思案して、釈迦は、自分の努力で自分を救う、「修行」の道を見つけた。 精神集中によって、普段の生活では絶対に得られない高度な智恵を生み出し、その智慧の力で、自己の精神を改造していこうという道である。それが修行の本来の意味だ。その釈迦の教えを精密化して、大きな体系としてしあげたのがアビダルマである。
したがって、アビダルマの目的は、「自分自身の努力で自己改造を行う方法を皆に教えること」である。
 肝心なのは、その土台が、「この世に超越存在はない」という釈迦の教えにあるという点である。
したがって、アビダルマの体系には、神秘存在は一切関与してこない。すべては法則性だけで成り立っている。
~中略~
 仏教はこのように、本来は精神の二重構造など考えなかったのだが、やがて大乗仏教になり、特に唯識と呼ばれる得意な思想が生まれてくると、その体系の中で、独特の無意識世界を考えるようになる。精神領域の最奥に「アーラヤ識」と呼ばれる根源的な活力源があり、それが、我々の精神を生み出し、さらには驚いたことに、その精神が認識する、外界の物質世界までも生み出すという。~中略~
この唯識の世界観は、先ほど紹介した、説一切有部のアビダルマとは全く異なる。アビダルマでは、世界の存在要素は、物質にしろ精神にしろ、すべて現実に存在する実在であった。その実在要素が、法則性によって連関しあいながら一切を生み出していく。我々自身もまた、その実在する要素の集合体であり、法則性のしもべなのである。
~中略~
唯識を科学的合理性に基づく認識論だと考えると大間違いになる。「この世はヴァーチャルだ」という唯識のベースには、「ヴァーチャルなものがリアルであり、リアルとヴァーチャルに区別はない」という主張を読みとらねばならない。
 仏教修行者が瞑想の中で出会う心的イメージとしての仏や、その仏が語りかけてくる言葉は、合理的世界観から言えばあくまでヴァーチャルな、空想の世界なのだが、「そもそもこの世界はすべてヴァーチャルであって、そのヴァーチャル世界こそが我々にとっての現実だ」ということになれば、その仏の姿や言葉が、一転して現実のものとなる。つまり、我々が瞑想状態で仏と出会うということは、「本当に」仏と出会うことになるのだ。
こうして唯識のアイディアを導入することで、我々は、本来ならば出会うことのできない様々な仏たちと顔を合わせ、声を聞き、そして仏道への新たな決意を起こすことができる。

P107
釈迦の仏教はこう言う。
「生き物は何もしなければ自動的に輪廻してしまう。それは苦しみの連続だ。その苦しみから逃れるには、輪廻を止めて完全消滅を目指すしかない。仏も、その弟子達も、完全消滅(涅槃)を最終目標として修行に励み、そしてそれを成し遂げたのである」と。
それに対して大乗仏教は、その教えを変更して、「悟った者は、長大な寿命を持つことができる」、あるいは「不死なる超越存在と合体することにより、宇宙の一部となって生きることができる」とする。
悟りによって究極の幸福状態に達することができるということは盛んに唱道するのだが、その幸福状態が涅槃ではなく、もっと現世的な「楽しい来世」に置き換えられていくのである。「悟れば永遠に生き続ける存在になる」というアイディアを導入したことで、キリスト教やイスラム教と同じく、大乗仏教もまた、死期の再生による永遠の救済を主張する宗教の一員となったのだ。

P154
 大乗仏教は、キリスト教やイスラム教と同じく、外部に絶対存在を想定するのだから、当然ながら、その絶対存在との間になんらかの契約関係が設定される。

P174
なぜ大乗仏教が「大きな乗り物」なのかというと、超越者の不思議なパワーにより、大勢の生き物が一挙に救われるという、神秘的な作用を信じるからである。
そしてそういう神秘を認めず、「一人ひとりが自分の力で悟りを目指さねばならない」と主張する釈迦の仏教は、彼らから見れば、狭小で貧弱な宗教に見えたのだ。
~中略~
釈迦の説いた仏教は、人間が自分の力だけでテクテクと歩いていって、その先に心の平安を見出そうという、着実だが地味な道なのである。
「絶対者がいる」と想定する宗教と、釈迦の仏教のように「絶対者はいない」と考える宗教で、その世界観が根本的に違ってくるのは当然である。
佐々木 閑

 

生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書)

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