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男なんてさ♪~ [家族]

 P542
ある仕事にとりつかれた人間というのは、ナマ身の哀歓など結果から見れば無きにひとしく、つまり自分自身を機能化して自分がどこかへ失せ、その死後痕跡としてやっと残るのは仕事ばかりということが多い。
その仕事というのも芸術家の場合ならまだカタチとして残る可能性が多少あるが、蔵六のように時間的に持続している組織のなかに存在した人間というのは、その仕事を巨細にふりかえってもどこに蔵六が存在したかということの見分けがつきにくい。
 つまり男というものは大なり小なり蔵六のようなものだと執筆の途中で思ったりした。

花神 (下巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08) 

DSC_9732 (Small).JPG平山温泉 湯の蔵

P545
 お琴は、蔵六の両親や身内といたって仲がわるかったらしい。さらには家を外にして世の中に「機能化」してしまった蔵六という男を、亭主という重量感をもって感ずるにはよほど遠かったらしい。お琴は蔵六の看病もしなかった。
死後、蔵六の関係文書を下張りに使ってしまった。べつに悪気があってしたのではなく、蔵六という男は女房にとってもその程度の男だったわけであり、いまの世にあるおおかたの男どもも、根を洗ってしまえばそういう遇され方しかされていない。
あとがき

P91
 男が女とちがうのは、同じくらい弱いのに、自分の弱さを認められない、ということだ。
弱さを認めることができない弱さ、といおうか。これが男性の足をひっぱることになるのは、老いるということが、弱者になることと同じだからだ。
 わたしには、これは「男というビョーキ」に思える。男は小さいときから強くなくては、と思いこまされてきた。自分のなかになある弱さを押し殺し、他人に見せず、虚勢を張って生きてきた。
 弱さが許せないから、弱虫や卑怯者を軽蔑してきた。病気になった同僚を、自己管理がなっていないからだと吐き捨て、学校へ行けなくなった息子を、そんなヤツはオレの息子じゃない、しっかりしろ、と叱咤激励してきた。
障害者を差別し、高齢者は分相応に引っこんでいろ、と思ってきた。~中略~
 ずーっと強いまま、現役のまま、中年期のまま、死を迎えられたらよいかもしれない。だがそれが不可能なのが、人生100年時代である。
死にたくてもそうかんたんに死なせてもらえない超高齢社会が来たことをわたしが歓迎するのは、だれもが人生の最後にはひとのお世話にならなければ生きられず、弱者になることを避けられないからだ。

P113
 男って「死ななきゃ治らないビョーキ」だね、とつくづく思うことがある。
それはカネと権力に弱い、ということだ。
~中略~
 男たちをみていると、女に選ばれることよりは、同性の男から「おぬし、できるな」と言ってもらえることが最大の評価だと思っているふしがある。
 男たちがカラダを張ってまであれほど仕事に熱中するのは、「妻子を養う」ためでも、「会社以外に居場所がない」ためでもなく、パワーゲームで争うのがひたすら楽しいからにちがいない、とわたしはにらんでいる。

P211
 どんなマイナーな趣味にもそれなりのコミュニティがあり、そこではやはりパワーゲームが起きている。子どもの時のメンコ遊びから、家族合わせのゲーム、仮面ライダーのフィギュアのコレクションにいたるまで、男の世界は、「おぬし、やるな」のパワーゲームで一生がすぎるのかもしれない。

P287
「老いを受けいれるのはむずかしい」ということは、別ないいかたをすれば「弱者になることを受けいれるのがむずかしい」と言ってよい。にんげん、産まれたときは弱者だったのだもの、人生の最後にもういちど弱者に戻ってもかまわない。
~中略~
 高齢社会の到来をわたしが歓迎するのは、かって強者だったどんなひとも、かならず弱者になっていくからだ。そのとき、自分が弱者になっていくことを受けいれられるか、他人の手に安心して自分をゆだねられるか・・・が問われる。
男にむずかしいのは、「弱者である自分」を受けいれること。

男おひとりさま道
上野 千鶴子 (著)
文藝春秋 (2012/12/4)

 変動期に登場する英雄というものは、平時には暮らせないような男で、みなケタがはずれている。はずれた部分から男そのものがむき出しになっている。
時代小説というのは、そういうむき出しの部分を書く小説なのだ。
 むろん、かれらは狂人ではない。どの男もその部分をもっているのだが、かれらがたまたま男性というものを代表して変動の時代にその部分をむきだしにしてみせてくれるだけのことである。
 いまも、かれらはいる。いることはいるが、その部分をねむらせてくらしているのだ。本質は豹であっても自分を猫だと思い、人にもそう思われて暮らしているだけのことである。
泰平の時代では、男は、女房子供を安楽に食わせることだけが機能だし、女たちが男に要求するモラルも、そこに集中している。
団地で女房にこきつかわれながらセンタクをしている亭主どもをみよ。かれらは乱世になればあるいは豹になるかもしれない男なのだが、世はこぞって男どもに猫になることを命じている。
男というものは、なんとかあゆくあわれではかない生きものではないか、女性諸君。
(昭和37年10月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P227

男子は、婦人の占め得る最高の地位に婦人をおこうとしています。家庭の支配ということより高い地位がありますか。男は外的の事情に悩まされ、財産を作り、これを守らねばなりません。
その上、国務に関与したり、至る処で周囲の事情に左右されます。私に言わせれば、男は支配しているつもりで何も支配せず、理性的であろうと欲して、常にひたすら攻略的にならざるを得ず、公明であろうとして、隠し立てをし、正直であろうとして、うそをつかざるを得ないのです。
達せられない目的のために、自己との調和という最も美しい目的を常に放棄しなければならないのです。
これに反し、分別のある主婦は内部において実際に支配し、家族全体にあらゆる活動と満足とを可能にします。

ゲーテ格言集
ゲーテ (著), 高橋 健二 (翻訳)
新潮社; 改版 (1952/6/27)
P16


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