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神権国家の近代国家を創ろうとした日本 [雑学]

 日本では、近代国家を創ろうとするときに、国家が特定の宗教(神道)を利用して、民族主義の高揚をはかりました。 これは、ヨーロッパとは逆のプロセスになっていることに注目する必要があります。ヨーロッパでは、近代以降、民族主義が高まるにつれて、教会の権威は失われていきます。つまり、宗教から離れていくのと、民族主義が高まっていくのが、平衡して進んでいきました。日本では、近代化のプロセスで、神道の国教化を進めたことになりますが、これでは、どうもうまくいきません。
 日本の場合も、近代国家として生まれ変わるには、西欧の文明を導入せざるをえませんでした。その西欧文明というのは、中世キリスト教文明ではなく、近代になってキリスト教会の力が衰えた後に栄えた近代の西欧文明です。 近代西欧文明というのは、前に書きましたように、キリスト教から離れていく過程で生み出された科学や啓蒙思想が基本にあります。
それなのに、近代西欧文明が宗教から分離していったことは封印したうえで積極的に受容し、天皇を頂点とする神権国家をつくるというのは、ずいぶん無理なプロジェクトでした。

イスラームから世界を見る
内藤 正典 (著)
筑摩書房 (2012/8/6)
P208

TS3E0628 (Small).JPG戸上神社秋季大祭


P42
 皇紀などという奇妙なものを公式に制定したのは、民族主義が昂揚、もしくは昂揚せざるをえなかった明治初年のことで、太政官は「日本書紀」の紀年法を採用し、西暦から六六〇年古くして神武天皇の即位の年とした。
「日本書紀」の上代が、建国を古くするためにずいぶん荒唐無稽な年代のひきのばしをやっていることについては、すでに江戸時代でも国学者の本居宣長(一七三〇~一八〇一)や籐貞幹(とうていかん)(藤原貞幹・一七三二~一七九七)が疑問を提出した。
明治初年の太政官は、宣長や貞幹の説を知らなかったのであろう。
明治五年、「太政官布告第三四二号」をもって、無知な官員どもが紀元をさだめ、布告した。
 津田史学が成立する以前にも、東京帝大文学部講師那珂通世(なかみちよ)(一八五一~一九〇八)が、明治三十年に「上世年紀考」(「史学雑誌」第八編)を発表し、神武即位紀元が、「日本書紀」のつくり手の作為であることをこまかく立証した。しかしこれらは学問の場にとどまり、政治や教育の場には入って来なかった。
~中略~
 もっとも、神武紀元はウソだという津田左右吉の学問は、当時の内務省の大小の役人の知識のなかにはなかったらしく、二千六百年の紀元節である二月十一日が近づいてからそのことに気づき、あわてて一月十三日、岩波書店に対し、津田左右吉の著作を内務省に持って来させ、その翌月、発禁にしている。泥縄というのはこのことでろう。

P44
カムヤマトイワレヒコというのが神武天皇だが、この人物についての記述は「古事記」「日本書紀」にしかない。日向(ひゅうが)から出てきて瀬戸内海岸を東に進み、やがて大阪湾に入って上陸し、河内平野を分け入り、やがて生駒山を越えて大和の国に入ろうとしたが、土酋の長髄彦(ながすねひこ)に阻まれ、退却し、ふたたび海に泛(うか)んだ。捲土重来(けんどちょうらい)を期し、紀伊半島の先端にまわった。先端で上陸し、熊野の山々を越えに超えて北上し、十津川を経て(?)大和盆地のいわば搦手(からめて)から入って盆地の平定に成功した―というのが、神武神話のあらましである。
~中略~
 本来、実在性のとぼしい神武天皇がどこを通ろうが、考証は無意味なのだが、明治から大正にかけての独学の歴史・地理学者である吉田東伍博士(一八六四~一九一八)は、記紀をさほどに疑わない時代に生きていたから、その大著「大日本地名辞書」にも「神武帝、大和打入の時、熊野より吉野に出で給ふ、実に十津川を経由したまへり」と断定している。
断定のための証拠などはむろんない。しかし紀伊半島の南端から北上して熊野の山々をこえ、大和盆地に入らねばならぬとすれば、古代の地理条件を考え、他のコースを比定するより十津川経由を考えるのが自然だというふうにこの地理学者は思ったのにちがいない。

P46
 江戸時代に「大和名所図会」というのが、出ている。この本の(ばつ)に寛政三年(一七九一)という年号があるから、江戸中期のもので「古事記」の研究を最初におこなった本居宣長の在世当時である。
 ただし、この「大和名所図会」をながめてみると、作者が「古事記」「日本書紀」を読んだという形跡がまったくないことにおどろかされる。
このことは、江戸中期までの知識人の多くが「記紀」を読まなかったどころか、ふつうその所在さえ知らなかったという私の印象に符号する。すくなくとも、「大和名所図会」はそのことの有力な証拠の一つといっていい。
~中略~
 江戸後期になって国学がさかんになり、宣長の注釈書である「古事記伝」も大いに読まれ、「日本書紀」も、一部読まれるようになり、「記紀」は流行の署名になった。というよりも、国学者以外の知識人のあいだでは、「記紀」をも参考にした頼山陽の「日本外史」を読むことによって神武天皇の名も知り、神話時代の概略をも、新知識として知った。
 この流行は、幕末の政治思想につよく影響をあたえるところの一種のモダニズムであったにちがいない。
 幕末の文久二年(一八六二)といえば京都は長州的過激主義の全盛期で、かれらが宮廷をかつぎ、同年に畝傍山東北の隆起をもって神武陵とし、山之上の神功皇后の神社をおろして西麓に移した。
 この畝傍山麓に現在ある樫原神功などは、ひどく古い伝統の神社のような印象をうけるが、明治二十二年の設立で、それまで神武天皇を祀る神社などは、日本のどこにもなかった。
ひとつの伝説を国家をあげて三十年宣伝すれば古色を帯びるという説があるが、日本史は幕末から昭和二十年までのあいだ、そのことを経験したのである。貴重な経験といっていい。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)


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