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キリスト教の正統 [宗教]

爪 前略~ 一神教の特徴は、「人間のもの」と「神のもの」を厳格に区別する。そして、「人間のもの」に権威を認めないことです。
ところが、どうしてもある「解釈」(人間のもの)を下さないと教会が集団としてまとまらなくなる。ではどうする?聖書の編纂はすんでいるし。
 そこで考えられたのが、公会議です。  これは、各地の教会の指導的立場の人びと(主教)がみな集まる会議で、キリスト教の正しい教義(ようするに、解釈)はなにかを議論する。そして、結論を出す。
議論が分かれた場合は、多数派が正しいとされ、「正統」になります。少数派は多数派にしたがわないと、「異端」として教会から追放されてしまう。キリスト教会はこれを、何回も何回も繰り返したんですね。
 なぜこんなことができるかというと、公会議に、聖霊がはたらいているからです。人間が集まって下した結論(どの解釈が正しいか)でも、解釈を超えたものになる。公会議の決定には、すべての信徒は従わなければならない。これがキリスト教の習慣です。

 三位一体説も、そうやって決定された。学説としては問題が多く、有力な反対意見も多かったんですけど、すったもんだの末、三八一年の、第一回コンスタンティノーブル公会議でほぼいまのかたちに決定された。

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P248

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 作者: 橋爪 大三郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/05/18
  • メディア: 新書


P250
大澤 ちょっと細かいことですが、イスラム教では、最も重要な法源であるクルアーンでも、その次に重要な法源であるスンナ(ムハンマドの言行)でも、どちらでも決められないとき、イスラム法の大学者たちが話し合うイジュマーというものがあります。このイジュマーとキリスト教の公会議とは似たようなものと考えていいんですか?
橋爪 だいぶ性格が違います。公会議では、意見の対立があるから、それを決着するんです。
イスラムのイジュマーは、全員一致でなければ決定できない。もしも、意見の違いがあれば、多数であっても少数であってもそれは人間の意見であって、神のものではないことになる。ゆえに、どちらをとたとしても間違い。多数決はないんです。でも公会議は多数決。多数決ですらない場合もある。
大澤 前略~
 キリスト教の場合、第2部で確認したように、福音書の間にすでに不一致があります。神は単一ですが、それを経験した人間の視点や見解には多様性があって、こうした違いは聖典である新約聖書の中に孕(はら)まれている。
 一方、イスラム教の場合はは、ムハンマドがほぼ直接、神の言葉を受け取っているから、聖典であるクルアーンに多様性や多義性は入りようがないし、入ってはならない。スンナに関しても、それが伝承されてきた経路を正確に確定したうえで、内容を一義的に決定しようとする強烈な意志がイスラム教にはある。イスラム法の場合には、意見の不一致は本来ありえないことで、それ自体、スキャンダラスなことなのでしょう。だから、少しでも法の解釈に不一致がある場合には、結論がだせない。
しかし、キリスト教では、公会議でさまざま意見が出るのは当たり前のことです。つまり、不一致があるということをあからさまな前提にしながら結論を導くのではないかと思います。
   だからといって、キリスト教が、さまざまな解釈や意見に対して寛容かと言えば、そんなことはありません。むしろ逆です。多数派の見解が正統解釈とされ、教義として定着する。これと異なる見解は異端だといくことになる。

 

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 作者: 橋爪 大三郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/05/18
  • メディア: 新書





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