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偽装家族 [家族]

 こうしてみると家族写真の年賀状を出している家同様、外に向けて電飾をしている家が電飾をしない家より本当に仲の良い「幸せ家族」であるかと言えば、それは危うい。
ただ、近年は自分や自分の家族が他人の目にどう映るかということにこだわる人が、確かに増えているのであろう。 そして、自分の家族の周りの人に「みんな一緒」で「仲良く楽しそう」で「幸せそう」に見せたい人が増えているのでもあろう。
 ただし、そのように「見せて」いる家族が本当にその通りであるかと言えば、この調査からはむしろ逆転しているかのような結果ばかり見えてきたのである。

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓
岩村 暢子 (著)
新潮社 (2007/10)
P198

P1000128 (Small).JPG


 ああ、何という世の中になったのだ。教育論がとびはね、「子供の気持を理解しなければいけない」「自主性を認めなければいけない」などと空念仏を唱えて、それでわかった気になっている。
したり顔の理論を口にしてそれを教育の要諦(ようてい)だと思っているうちに、本来ある筈(はず)の情が磨滅していった。
 昔は「頭痛と自殺はこどもにはないといわれていた。~中略~
 子供に自殺と頭痛はないという通説は本当だったような気がする。つまり当時の子供は鈍感で暢気(のんき)だったということだろう。先生やお父さんは怖いものと決っていた。実際、先生やお父さんは子供をよく叱った。
嫌いも好きもない、ただ怖い存在だった。~中略~
 昔の男の子たちはよく先生から殴られたり、廊下に立たされたりしていた。体罰が必要なほど当時の男子児童はエネルギーに満ちていて、「わるさ」が多かった。
殴られても骨が折れたり熱が出たりしないのは、年中どやしつけられたりはたかれたりして鍛えられていたからだろう。先生や親父さんからそんな目に遭っても、泣きはしても恨むことはなかった。すぐに忘れて、また叱られるようなことをしたのである。
年中、子供に怒りながらも、親は可愛がった。子供のことが常に念頭にあったから、箸の上げ下ろしに怒ってしまうのだった。
 毎日のように叱ったり叱られたりしながら、親子は密着していた。そこには「情」というものがあった。
~中略~
 今は運動会だというとお父さんお母さん揃って応援に行く。お父さんは写真を撮りまくり、お母さんは華やかに作った弁当を広げる。 子供を喜ばせるために、だ。
子供の誕生日にはケーキに蝋燭(ろうそく)を立て歌を歌う。子供を喜ばせるために。
 そんなふうにしてもらいながら、子供は親に黙って突然死んでしまう。なぜ親と子の間にこんな隔絶が生じたのだろう。どの親も一所懸命に子供の教育に心を砕いているのに。

九十歳。何がめでたい
佐藤 愛子 (著)
小学館 (2016/8/1)
P190



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