SSブログ

世間というもの [処世]

最初、この長州馬関に行ったとき、
「阿弥陀寺という寺はどこにあります」
と、土地のひとにきいて笑われた。明治以後、神社になってしまっているというのである。
「赤間宮がそうですよ」
 といわれて、なんだと思った。赤間宮の石段の下で、土地のひとにきいたのである。
~中略~
 赤間宮にのぼると、のぼった左手のほうに平家一門の墓がある。
~略~、例の琵琶法師耳無し法一の伝説もここからでた。
 ともあれ、幕末の長州人は、この赤間宮を知らない。維新後、神道ブームがあって神仏分離という悪名高い太政官令がでた。
阿弥陀寺の場合、天皇を仏式でまつるとはけしからぬということで、にわかに神社にした。一時、
「天皇社」
とよばれていたらしい。すぐに赤間宮という名称にかえられた。
 その初代宮司は、下関の豪商白石正一郎であった。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)
P196

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

P199
 生き残りの長州志士は東京へゆき、どうみても三流の人物でしかないという連中まで廟堂に列したが、落魄した白石(住人注;下関の豪商、海運業者、白石正一郎で、維新の志士たちを支援することで家産を蕩尽した)をかえりみる者がなかった。
白石のほうも、いまさら勘定書を出すような人物ではなかったらしい。
維新後の白石正一郎について、下関在住の歴史家古川薫にいい文章がある。無断で借用すると、「正一郎の場合、その功績をみずから語ることばも、不遇をかこつ片言さえものこしていないことが、私たちはわずかな救いである。ただ正一郎が、安政(一八五七)年から明治十一年にいたる身辺の動きを克明に書きこんだ分厚い日記が無気味に残されているだけだ」とある。
 この日記は、昭和四十三年、下関市教育委員会から「白石家文書」として刊行された。そのどこを繰っても、古川氏のいうように、怨みごとはすこしも出てこない。
~中略~
赤間宮には、彼の碑もない。世間というのは、そういうものである。

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント