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坂東武者は渡来人 [日本(人)]

 百済人がその故郷にあったころ、戦闘にあけくれていた。北は高句麗の圧迫をふせぎ、東は新羅と戦いつづけて、かれらは日本地帯のひとびととはちがい、戦闘に習熟していた。
 しかも百済人は、北方の高句麗騎兵になやませつづけていたから、当然、騎射には熟達していたにちがいない。
 そのころの大和から西日本一帯は、瀬戸内海があるため、船には長じていた(白村江の海戦では敗れたものの)。 しかし馬にはきわめて不熟練であり、第一馬そのものがあまりいなかった。
 そういう日本列島にあって、その東の辺陬(へんすう)に突如騎馬文化が成立するというのは、百済人2千の入植という事実をはずしては考えられない。
 この集団が、日本史上、われわれが誇る、もっとも典型的な日本人集団とされる坂東武者に変ってゆくことを思うと、東アジアに人間の交流や、文化の発生にかぎりないおもしろさを覚える。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)
P106

DSC_0980 (Small).JPG川中不動と天念寺

 中国の戦国末期の逍の国が、匈奴のまねをして軍制を騎馬式に変えたと「史記」ではいうが、なんといっても逍は農業国のはずであり、騎馬軍の実態はおそらく大したことはなかったにちがいない。
 なぜなら、騎馬民族というものは軍団を組んでゆくときに、一騎当たり、乗り換え用の馬を十頭内外は曳いてゆくのである。
行軍や戦闘で馬が疲労すれば(乗用の馬は披露しやすい)どんどん活力にみちた馬に乗り換えてゆく。匈奴というのはネコもシャクシも、乗り換え馬をもっているものだが、そういう贅沢は、農耕地帯の国では不可能にちかく、ひるがえっていえば、乗り換え馬をもたない騎馬軍というのはカッコウだけのもので、内実は弱い。
逍の国の新設騎馬軍の兵たちは、それだけの乗り換え馬を持たされていたであろうか。
 日本の場合、平安末期に関東平野で成長した騎馬武士たちは、関東一円がほとんど牧場のようなものであったため、乗り換え馬はふんだんに持っていたらしい。
かれらがのちに、騎馬戦に不得意な平家を圧倒すべく西国へ大遠征するとき、中級の武士でも数頭の乗り換え馬をもっていたと言われる。平家はおそらく将領クラスでないと、それが可能でなかったにちがいない。

街道をゆく (5)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P243


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