人が流入すると標準語になる [雑学]
まったくの寒村であった。ところが戦争に負けてアメリカ軍の空軍基地が出来ると、にわかに北奥の都市になった。成立が、沖縄のコザ市に似ている。
たちまちひとびとが三沢へ流入した。津軽からも南部からも、あるいは秋田からもやってきたが、相互に言葉が理解できず、意思疎通が困難をきわめたためたちまちラジオの標準語が普及した。「ですから三沢ででいちばん通用する言葉は標準語です」
「二番目は三沢の地言葉ですか」
「いいえ、英語です」
街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P82
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福岡市は九州全域からの人口流入にもかかわらず、現在でも中心地ですら博多弁が幅を利かせている。一方、北九州市は古くは官営八幡製鉄所や炭鉱により工業地帯として周辺地域から多くの労働者の流入、門司鉄道管理局の国鉄マンとその家族などの流入により昔から比較的標準語に近い言葉になっているように思われる。特に門司ではほとんどの人が明治以降に流入してきた人たちであり、地言葉を話せる人間はわずかである。
ただし、博多弁が残っている理由は博多が古くからの商人文化の栄えた街で、気質が大阪と似ているから博多弁が残っているという別の理由も考えられる。つまり博多は昔から都会で、独自の文化が栄えていたのに対し、北九州は小倉の中心地を除き三沢同様の寒村であったのである。
馬寄村の住人
2013-11-06 01:00
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