鎮守の森 [日本(人)]
日本の神社は、常に森林におおわれている。高い樹の梢からつたってカミが降りてくるという信仰があり、樹々はカミのよりしろであるから、伐ってはならないという禁忌が長く伝わっていた。
その下草もまた、生うがままに繁っていた。神社をこわすということは、すなわちそれをとりまく神林を伐採することであった。伐採した樹木を払い下げることに利益があったから、地方役人と利権屋が結託して、神社合祀令を濫用することもしばしばあった。
南方は、植物学者として、神林の濫伐が珍奇な植物を滅亡させることを憂えた。民俗学者として、庶民の信仰を衰えさせることを心配した。
また村の寄合の場である神社をとりこわすことによって、自村内自治を阻むことを恐れた。森林を消滅させることによって、そこに棲息する鳥類を絶滅させるために、害虫が殖え、農産物に害を与えて農民を苦しめることを心配した。
海辺の樹木を伐採することにより、木陰がなくなり、魚が海辺によりつかず、漁民が困窮する有様を嘆いた。
産土社を奪われた住民の宗教心が衰え、連帯感がうすらぐことを悲しんだ。
そして、連帯感がうすらぐことによって、道徳心が衰えることを憂えた。
南方は、これらすべてのことを、一つの関連ある全体として捉えたのである。
自然を破壊することによって、人間の職業と暮しとを衰微させ、生活を成り立たなくさせることによって、人間性を崩壊させることを、警告したのである。
南方熊楠 地球志向の比較学
鶴見 和子
(著)
講談社 (1981/1/7)
P223
南方熊楠 地球志向の比較学 |
日本は資本主義国だというが、たとえば英国やフランス、アメリカといった国で、農地や山林を投機や思惑の対象にしてほうり投げあいをしているような状態があるだろうか。
フランスの百姓は悠々と葡萄をつくり、ロンドン近郊の牧場主が、坪いくらするなどという滑稽な計算をすることなく、ひたすらに牧草をそだてている。
日本では、本来自然であるべき大地が、坪あたりの刻み方で投機の対象に化(な)ってしまっているというのは、元来、生産を中心とするはずの資本主義でさえないのである。
現行の経済社会そのものを自滅させつつあるバケモノのような奇妙な経済意識が日本人の心と自然を荒廃させたあげく、その異常な基盤のなかから総理大臣の座まで成立させてしまった。日本は、日本人そのものが身の置きどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっているのである。
日本は、土地を財産としても投機対象としても無価値にしてしまわねば、自然の破壊などという前に、精神の荒廃が進行し、さらには物価高のために国民経済そのものが破産していまうにちがいない。
街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P188
コメント 0