世界が相手だ [ものの見方、考え方]
小生の書くものいずれも(ちと大層だが)世界の学者を相手にする心懸けに出て、日本の凡衆啓発また娯楽用にかくにあらざれば、誰も読まぬも知れず。
~中略~
間宮林蔵の「カラフト紀行」ごとき本邦では写本でのみ行われ何の聞こえも高からざりしが、海外には早くこれを翻訳し大いに用に立てたることなり。これを用うると用いざると、その国民の注意不注意による。
自国民が用いなばとて気を落とさず、知識は世界一汎の知識と思いて書き置きたる心の広さ、まことに欽すべし。
(16)「往復書簡集」一六〇-一六一ページ
鶴見 和子 (著)
講談社 (1981/1/7)
P34
P236
第一章で述べたように、南方の学問は「ネイチャー」および「ノーツ・エンド・クィアリーズ」における多数の外国人学者、知識人との問答の形で展開し、形成された。
このことは、南方が日本にかえってからも、長くつづいた。南方が、はじめ那智の山中に隠栖(いんせい)し、のちに田辺の海辺に定住するようになって、あたかも、外国はおろか、日本の学会からも孤立しているように見えたとき、かれは多い時にはおなじ号に二、三種類の英文の質問、回答、覚書などをこれらイギリスの学術雑誌に載せていたのである。
かれは、隠栖を拠点として、世界の学者を相手に、文字どおり問答していたのである。
「ノーツ・エンド・クィアリーズ」の帰国後の文章のあとに、"Nachi,Kii,Japan"または"Tanabe,kii,Japan"と署名とともに記されているのを見るとき、わたしは、自分の棲む場所を根拠地として、世界に向かって発言する、という南方の志を読みとることができる。
南方熊楠 地球志向の比較学 |
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