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山人(やまひと) [日本(人)]

  山人(やまひと)という語は、この通り起源の久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神 が末二つに分かれ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたとみるのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓(よ)ませているのであります。

山の人生
  柳田 国男 (著)
  角川学芸出版 (2013/1/25)
   P190

山の人生 (角川ソフィア文庫)

山の人生 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/01/25
  • メディア: 文庫

 

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/12/18
  • メディア: Kindle版

 

DSC_3729 (Small).JPG望雲台

P190
 自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニに鬼の漢字を充てたのは随分古いことであります。その結果支那から入った陰陽道の思想がこれと合体して、「今昔物語」の中の多くの鬼などは、人の形を具えなかったり、孤立独住して種々の奇怪を演じ、時として板戸に化けたり、油壺になったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終枝この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。
斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖の上に踞(うずく)まって、大きな笠を着て顋(あご)を手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰(ふかん)していたという鬼などは、この系統のもっとも古い一つである。
~中略~
 また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とすりょうな兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。

P194
村に住む者が山神を祀り始めた動機は、近世には鉱山の繁栄を願うもの、あるいはまた狩猟のためというのもありますが、大多数は採樵(さいしょう)と開墾の障碍(しょうがい)なきものを禱(いの)るもので、すなわち山の神に木を乞う祭り、地を乞う祭りを行うのが、これらの社の最初の目的でありました。
そうしてその祭りを怠った制裁は何かというと、怪我をしたり発狂したり死んだり、かなり怖ろしい神罰があります。東北地方には往々にして道の畔(くろ)に、山神と刻んだ大きな石塔が立っている。

P195
 天狗を山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。あるいは山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く。手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、「太平記」以前のいろいろの物語には、随分盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことをちゅういしませぬ。
仏法の解説ではこれを魔障とし、善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず一方には天狗の容姿服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験山伏とよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、尊敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細のあることでなければなりませぬ。
恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、共にある程度までは参与していたのを、平地の宗教が段々にこれを無視しまたは忘却していったものと思っております。
 今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねてみる他はないのであります。
山人考

 

山の人生 (角川ソフィア文庫)

山の人生 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/01/25
  • メディア: 文庫

 

 

P111
 世界史的にみても、富より貧のほうがまもりやすい。
 中国の高地に住む少数民族の種類はじつに多いが、おそらく紀元前からその俗を守ってきたといえるであろう。
山郷で武をみがいて低地人の近づくことを阻(はば)みつづけ、低地でもって多くの漢族や騎馬民族の王朝が交代したが、苗(ミャオ)族ら高地に籠るひちびとは、そういう権力や歴史といっさい無縁であるという態度を持(じ)しつづけた。
~中略~
 十津川郷民を苗族になぞらえるのは唐突すぎるが、しかし日本の歴史のなかで、低地の政治に対し関心をもちつづけた唯一の山郷といえるし、さらには低地の権力に対し一種の独立を保ちえた唯一の山郷ともいえるのではないか。
 壬申の乱で天武天皇に接触し、大坂ノ陣で徳川家康に接触するのは、山民たちがかれらを好きだったということではないであろう。一貫して自分たちを伝統のまま置き捨てておいてもらいたいということであり、ひいては十津川の伝統的な堵(と)を守り、それに安んじていたいための保証のとりつけであったといっていい。

P114
 幕末、十津川の人はじつによく働いた。
 幕威が大いに衰退して長州の過激勢力が大いに騰(あが)った文久三年(一八六三)、十津川郷士は長州藩の口ききで御所の守護をつとめることになり、その旨、中川宮令旨(りょうじ)という形で、一郷にくだった。~中略~
当時、十津川ではこれを、
「京詰」
 といった。
 京に、諸藩の藩邸のようにして十津川屋敷ができる(寺町通三条下ル円福寺)のは文久三年八月九日である。~中略~
 御所の諸門は、会津藩をはじめ、薩長土その他の諸藩それぞれ担当を決めて守っている。が、諸藩はいずれも政治性がつよく、薩と会が結び長を都から蹴落とすといったこともあり、翌年には長州藩が武装上洛していわゆる蛤御門ノ変をおこすという騒動もあったが、十津川郷士二百人は諸藩の政略とは無縁にただひたすらに門の番につとめた。
「今夜は十津川の者が門を守っているから、安心してねむることができる」
 と、孝明天皇がつぶやいたという話が十津川につたわっている。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)

街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫)

街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/10/07
  • メディア: 文庫

 


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