農本主義国 [雑学]
南北朝動乱期の室町幕府の中では、少し大胆に言うと、足利尊氏と高師直が「重商主義」、足利直義が「農本主義」の政治路線だったと言うことができると思います。
そして、この両者の対立を背景に十四世紀前半から約六十年間にわたって大動乱が起こるのですが、その動乱が沈静化した時、足利義満は基本的に「重商主義」の方向で政治を軌道に乗せます。
義満は後醍醐天皇が行おうとして失敗したことをほぼ実現させ、酒屋・土倉に対する課税、地頭の所領を貫高で評価した課税、勘合貿易の形の外国貿易の推進を通じて、政権を強化したのです。
こうして、その後の十五~十六世紀の約二百年間は「農本主義」が後退し、政治の表面に「重商主義」が現れてきます。日本国の歴史の中で、「重商主義」が政治の基調となった時期は例外的ですが、この期間はそのように言ってよいと思います。~中略~
しかし、十六世紀末に信長と秀吉の政権が誕生すると、権力による商工業・貿易の統制が強化され、再び「農本主義」の伝統が蘇ってきます。小国家が分立していた「日本国」を再統一するため、土地を基礎にした課税方式を採用した秀吉は「太閤検地」を行い、田畠・屋敷を米の石高によって評価し、それを基準に年貢を徴収する制度を作り上げようとしました。
また、刀狩によって百姓たちの武装を禁止し、農耕に専念させようとした点にも「農本主義」の姿勢が明確に現れています。もちろん、実際には江戸時代を通じて、百姓は刀剣や武器をもちつづけ、百姓の中には商工業・運輸業などに従事する人がたくさんいたのですが。
その後の江戸時代にもこの制度は引き継がれ、石高制による税制が確立して日本全国を覆いました。村の田畠や屋敷、時には海や山までを米の量に換算し、それに「免」という税率をかけて年貢を徴収するシステムです。
そして、この制度を維持するために、国家は石高を所持して年貢を負担する百姓に対して、あくまでも健全な農民であることを求めたのです。
歴史を考えるヒント
網野 善彦(著)
新潮社 (2001/01)
P90
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