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倭人 [日本(人)]

 東アジアでは歴史のながい時間、日本人は「」という語感で認識されてきた。
いまでも中国人にせよ朝鮮人にせよ、日本国や日本人に腹がたつとき、「日本め」というより、
「倭」
 という語感が、その感情にしっくりくる。
 その語感の中での「倭」というのはどういうイメージであるのかというのが、私のながい関心であった。
むろんせは矮(ちい)さい。ハダカでいる。どうもフンドシ一本で太刀を背負って肩ひじを張っている、イメージではあるまいか。
 礼教(儒教)の国というのは、男子は(むろん女子も)人前では決してハダカにならない。
いまでも朝鮮人が、いくら暑くても上半身ハダカになって夕涼みをしているとか、あるいは人前で水をかぶったりしているという風景は決してない。


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)
P124


DSC_0602 (Small).JPG鶴林寺 (加古川市)

P130
 朝鮮の使臣が、中国の都で日本の使者をしばしば目撃するようになったのは、おそらく室町期だったであろう。足利将軍義満などがさかんに朝貢貿易をやったころに相違なく、使臣たちは頭に烏帽子をいただきすべて室町風の武家礼服で出かけて行って、その異族ぶりはひとびとの目をおどろかせたにちがいない。
 むろん中国の宮廷にあっては、朝鮮のように儒礼の優等生ではないからすべて倭風にふるまった。それだけでも優等生の目(住人注;朝鮮の使臣)にはおかしかったにちがいなく、さらには日本の使臣の従者たちは、都の宿舎や酒場などで暑ければ遠慮会釈なくハダカになったであろう。
 その上、日本の武装私貿易者である倭寇―たいていはハダカに太刀という風俗―に朝鮮も中国もなやまされていたから、倭の武に懼(おそ)れ、おそれつつもその非礼教ぶりを一面軽蔑し、いわば「ケッタイなやつ」ということを強調するために、例の「拝謁の図」を描くについて日本の使臣をしてフンドシ一本で大あぐらをかかせた。むろんデフォルメだが、デフォルメであるだけに外国人の日本人イメージを知る上で参考になる。

P201
 これはあて推量にすぎないが、クダラというこの朝鮮語にもないふしぎな言葉は、古代に南鮮に住んでいた倭人がつかっていたのであろう。
倭人とよばれていた人種が漢民族とともに南鮮の原住民であったことはすでに金海のくだりでのべた。むろん倭人の居住地は南鮮だけでなく、その後日本とよばれるようになった地域、とくに対馬、壹岐、松浦諸島、北九州一帯に多数住んでいた。
この連中が、日本列島を東へ東へと弥生式の農耕方式による地域をひろげて行って、今日の日本国の原型をつくったという点では、おおかたの古代史家も承知してくれるにちがいない
~中略~
 当時、いまの釜山から金海あたりにかけて団結して生活していた倭人たちの目からみれば、
「大国(クンナラ)」
というあざやかな印象に映じたであろう。クンナラという朝鮮語がクダラの語源であるという一説はそういうところからくる。
 南鮮における倭人社会は、中国の「魏志」によれば狗邪(くや)(金海のあたり)を地盤にして活動し、東方の辰韓に鉄をさかんに求めていたというから、農具や兵器の生産力がひくく、そのためもあって、かれらの社会はさほどふるわなかった。
馬韓が百済国になったころの辰韓も新羅国になったが、倭人たちはそのあいだにはさまれて大いに難渋したに相違なく、自然のいきおいとして、日本に住む同種の倭人にたすけをもとめることが多かったに違いない。南鮮における倭人のたちは、やがて、
「任那」
 という一種の国家を作った。一種というのは王国ではなく、族長どもの連合社会だったという程度であったかという意味である。
~中略~
「いま、東に新羅、西に百済という大国が勃興してじぶんたちの土地が奪われようとしている。なんとかたすけてくれまいか」
 というようなことを、たえず言っていたにちがいない。そういう任那人たちの危機をきいて、元来血の気の多い北九州の倭人たちは勃然として侠気を発して集団で渡海したこともあったろうし、ときに任那人をなだめて、
「いっそ日本(こっち)のほうに移住してしまわないか」といったこともあったにちがいない。
神功皇后伝説というのはそういう古代的状況のなかで成立したものにちがいなく、以上のような程度の想像なら、ありうべきことへの想像というものさえ卑しむ古代史家でも許してくれるにちがいない。
 やがてのちのち、大和にできあがった統一政権がしきりに対朝鮮外交を―戦争をふくめて―やりだすのは、植民地対策というようなものではなく、同種族への援助行動というものであろう。

P204

かれ(百済の始祖温祚王)は南下当時、南鮮の一角に住んでいる倭人を見たに相違ない。

 倭人たちは他の夷人の風俗とは異なり、頭髪を繊維で結んでいる。しかし衣服は粗末で、縫うことをせずただ布を体にまきつけただけで、男女とも裸足で歩いている。性質は後漢のころの字書である「説文解字」の説明が正しいとすれば、倭というのはチビという語感よりもむしろ人によく従うという従順な感じをあらわすというから、その首領たちの命令をよくきくという特徴をもっている。
「われわれはすこしおとなしすぎますね」
 と、この道中のあるとき、編集部のHさんがそっとささやいたことがある。Hさんにいわせると、案内者であるミセス・イムがまるで羊飼いで、われわれは羊のごとくつき従っている、というのである。
「倭人の特徴ですな」
 と、私は答えておいた。

ながめわたすと、どの人も背丈が矮(ちいさ)いのである。このあたり、沖縄人というのはいかにも原倭人という感じで、背丈の高い旧満州民族(ツングース)や華北の中国人とは外見的にもちがっている。
 黒潮が洗っている沿岸地方はみな背丈が矮小であるといわれている。沖縄から薩摩半島、大隅半島、土佐、熊野、いずれも背のひくい人が多い。
 薩摩隼人の骨格については、
「背がひくく、体がツイタテのようで、脚がみじかい」
 といわれていて、それが良か青年(にせ)どんだ、とひらき直って誇っている古い民謡が鹿児島県にある。日本人の寸法が世界のほとんどの民族にくらべてひどくチビで、朝鮮人との間にも相当なひらきがあるということは言うまでもない。

街道をゆく (6)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/12)
P42







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