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個としての存在と社会的存在 [社会]

ヨーロッパ近代において明確にそのすがたをあらわす自由で自立した個人は、その内面からすれば、「われ思う、ゆえにわれあり」というかたちで自分の思考と存在を確信する個人であり、社会にたいしては、「人は、自由かつ権利において平等ものとして出生し、かつ生存する」というかたちでおのれの人権を主張する個人である。
 こういう個人は、社会生活において、なによりもまず自分の存在や価値をつらぬこうとする。どんな関係のなかでも、自分を失わないことがなにより大切なことなのだ。そういう個人は、他人にもその存在と価値をつらぬいてほしいと願うし、自分を失わないでほしいと願う。
近代社会を個人主義の社会だというとき、いう意味は、そのようにおのれをつらぬく個人を基本的な単位とする社会だということである。
 そういう個は、容易に和やまとまりを作りだしはしない。外からくる力にたいしては、つねに警戒と抵抗のかまえをくずさず、内面の確信にもとづくのでないかぎり、これを受けいれようとはしない。歴史的に見て、神や王権の支配と対決するかたちで個の自由や自立が主張された経緯からしても、個が容易に統合へとむかわないのは当然だったのだ。

新しいヘーゲル
長谷川 宏(著)
講談社 (1997/5/20)
P24

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

  • 作者: 長谷川宏
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: Kindle版

 

DSC_4650 (Small).JPG求菩提山

P56
 さまざまな人間関係のなかで自由と自立を守りぬくのはたやすいことではない。社会における種々の営みや活動には、個人の自由と自立をおびやかすもの、抑えつけるもの、突きくずすものも少なくない。また一方、自分の考えや利害にだけ執着し、なにがなんでも我を押しとおそうとすることによって自由と自立を確保できるというものでもない。
おのれをさまざまな集団のなかに投げいれ、そこで多くの他人と有形無形の、実利的な、また精神的な交流を重ねつつ、しかも自分を失わないのが、近代における個の自由であり、自立である。
個としておのれを守りつつ、しかも社会的な存在たらんとすれば、わたしたちは多大の緊張を強いられる。
社会の中で生きることと、個としての自由と自立を守りぬくことは、ほどよく折りあいのつけられるような安直な営みではない。個としての存在と社会的存在とのあいだには抜きさしならぬ矛盾が横たわっていて、近代人として近代社会を生きるということは、その矛盾をあえて引きうけることにほかならない。

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

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  • 作者: 長谷川宏
  • 出版社/メーカー: 講談社
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