日本文学 [日本(人)]
「諸行無常」
という。
インドの荒くれた自然の中で、つまり洪水と熱暑と不毛という人間の生存そのものの危機がつねにあるガンジス、インダス両川の流域のナカデうまれたこの豪快で喧噪で知的な人生観、自然感も、いったん日本に輸入されてくると、鴨長明の「方丈記」のような趣味的、感傷的ななよなよとしたものになってしまう。あまい涙にかえられてしまうのだ。
明治以降の文学のなかにも、この伝統はみゃくみゃくと継がれている。
極端な例が、石川啄木の歌である。この詩人の精神がどれほど高いかはべつとして、このひとの歌は、ひょいと角度をかえてみてしまうと、これほど珍妙なものはない。
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
この世は憂きものもの、ままならぬもの、といっていいオトナガ、蟹とあそびながら泣きぬれているのだ。
調べが高いからこそすくわれるが、これを卑俗にくだけば、演歌師が身ぶりをまじえながら「おれは河原の枯れすすき」とやっているのとかわらない。
別に啄木のわるくちをいっているのではなく、日本人というものは、なぜこうも浮世をなげきかなしむのが好きなのかとふしぎにおもうあまり、この歌をひきあいに出しただけである。
~中略~
日本文学は、この世を「感じる」文学が伝統的な本流をなしてきた。ここからは、容易にユーモアはうまれなかった。うまれたところで、洒落本、アチャラカ小説のたぐいが多かった。
日本の小説にほんとうの意味でユーモアの厚みができたのは、石坂洋次郎、井伏鱒二、獅子文六、太宰治以降からであるといってもいい。
夏目漱石のそれはたしかにこの世を「感じる」小説ではなく「考える」小説で、自然、明治、大正の作家のなかではめずらしくユーモアがあったが、その微苦笑には、なお書斎臭がつきまとっている。
人間のハラワタをしぼるようなユーモアではなかった。
ユーモアの発生体は、知性なのである。知性のガス化したものがユーモアだとすれば、漱石のガスには、ガス化しきれない粒子が多かった。漱石の罪ではなく、時代のせいだった。
明治、大正初期の孤独な知識人であった漱石は、かれの微苦笑を理解してくれるほどに、時代の感度が鋭くはなかった。つい、ガスになりきれずに粒子としてこぼれおちた、といえるだろう。
石川啄木と太宰治とは、おなじ東北の風土からうまれ、おなじく人生の第一義に泣き暮れる体質があったが、太宰の場合は、太宰のなかの別の知性人としての太宰が、泣き暮れている太宰をクスクス笑っている厚みがある。~後略
(昭和36年12月)
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P90
日本人はもともと楽天的な国民であった。彼は生の喜びを語ることを好んだが、死の不安を語ることをこのまなかった。
このような楽天的な日本人に仏教は深い絶望の思想、闇の思想を教えたのである。
無常観と末世思想、地獄の思想、恐らくこれらの思想が、日本人の心に深い陰影を与えたに違いない。
先天的に楽天的な民族である日本人が、この深い虚無の思想、闇の思想に対してどのように反応したか。
中世の日本の思想家、法然、親鸞、日蓮、道元などの思想の秘密をとく最大のカギは、この光の闇に対する戦いにあるように思われる。
続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P34
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