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ノモハン事件 [雑学]

  一九三九年関東軍が満州と外蒙(モンゴル人民共和国)の国境近くのノモハンにおいて積極的に国境紛争をおこした。事件の発端はモンゴルの騎兵数騎が、ハルハ川まで馬に水を飲ませにきたことからおこった。この付近の国境線は不明確で、日本側はその付近は満州領であるとし、モンゴル側はそれを自領としていた。
その数騎を、満州国軍の警備騎兵が実力で追っぱらったのに対し、モンゴル側は翌日六十騎で問題の地点へやってきた。押しかえすためにやってきたのではなく、モンゴル側にいわせれば、「あそこで馬に水を飼わせるのは、何千年来われわれがつづけてきたところだ」 ということであったらしい。
 それを日本側は挑発とみた。じつにばかげたことだが、「断固排撃」するために、捜索連帯に歩兵一個大隊を付けた部隊を急派しただけでなく、一個中隊の軽爆撃機をモンゴルの領内にまで飛ばし、モンゴル軍の包(パオ)二十個を爆撃してしまったのである。関東軍にすれば、頻発する国境紛争を「断固たる意志」を示すことによって終熄させるつもりもあったらしい。
しかし客観的にみればこれほど危険な火遊びはなく、またこれほど重大な「国家行為」をやるのに、現地軍がみずから判断し、みずからやったというような例は、当時、日本以外のどの国にもない。例の統帥権の魔術というべきものであった。
 この事態は、モンゴル人民共和国の側からみれば、侵略というほかない。自領に他国の飛行機が勝手に飛んできて二十個の包を吹っとばすなど、常識で考えられるだろうか。当然、日本国そのものが国家機関の決定にもとづいてモンゴルを併呑すべく侵略してきたとみた。
 いまでもモンゴル人は公式にはそう信じている。
~中略~
もっとも公正に見て、ノモハンをひきおこした関東軍に、直接モンゴル併合の意図などはなかったが。―当時のソ連も、、関東軍の意図をそこまでには考えていなかったようである。ただ、すでに似たような張鼓峰事件をひきおこしている関東軍の奇妙な強気を徹底的にくじいておく政略的必要が、ソ連にあった。
 この政略は、スターリン個人の判断から出ていた。かれはこの時期、ドイツの出方による欧州の形勢のほうを深刻に見、欧州に専念するために東方において関東軍を徹底的にたたきのめしておく必要を感じた。深入りせず、期間を短期に限定し、その間、ぼう大な兵力と鉄量をハルハ河畔の砂礫地に集中しようとした。~中略~
 このスターリンの大鉄槌によって、薄弱な兵力で火遊びをしていた関東軍は、徹底的に敗北してしまった。そのあとスターリンはモスクワにおいてあっさり停戦協定に応じている。
 要するに、政治現象としてのノモハン事件の真相はそういうところにあったが、しかし自国領を戦場とし、三千人ばかりの戦死者を出したモンゴル人民共和国としては、自国の頭上を通過する日ソ両国の政略という次元からこの事件を見ることはできず、国家がうけた肉体的苦痛の場から理解するのが当然といっていい。
「ハルハ・ゴル戦争(ノモハン事件)の当時、わがモンゴル人民共和国は建設の途上で、この戦争による支障や傷あとがどれほど大きかったかはかりしれない」
 とし、公式的には、モンゴル人はいまもハルハ・ゴル戦争を忘れていない、としている。ソ連と真に接近するようになったのもこのときからだ、というが、小事実としては当然そうであろう。
しかし大事実としては、この事件前後にソ連は外蒙国境を重視するようになったということがある。ソ連は国防上の必要から、モンゴル国家建設に、必要な援助を与えるようになった。ノモハン事件は、そういう意味からも、モンゴル人民共和国にとって重大な歴史であった。

街道をゆく (5)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)
P119



DSC_1654 (Small).JPG吉野ヶ里遺跡


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