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琉球は倭人の国 [日本(人)]


 沖縄問題のなかに、独立論というのがある。
 復帰のときにも、この声が、ごく少数ながら聞かれた。そのことは、ここ数年、沖縄のことを考えるたびに、肺の内側にとげが刺さったようにして、思案のなかから離れることがない。

 沖縄人は、たとえば津軽人や長州人や肥後人がそうであるように、倭人の一流であることはまぎれもない。
 しかし地理的に遠距離にあったということもあって、独立性の高い文化性を持った。この風土性をてこに政治論へ転化させるとき、琉球独立論が多分に試験管のなかながらも成立しうる。
 さらには、
 ―島津の琉球侵略後、また明治の琉球処分(廃藩置県)後日本とくっついていて、ろくなことがなかった。
 とも、その論者はいう。
 明治後、「日本」になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大坂人も東京人も、佐渡人も長崎人も広島人もおなじになってしまう。
ここ数年そのことを考えてみたが、圧倒的におなじになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える。


街道をゆく (6)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/12)
P24





DSC_5399 (Small).JPG恒見八幡神社

P26
「琉球処分」
 とよばれる琉球の廃藩置県は、明治十二年である。
 本土における廃藩置県も、各藩の実情をみると、旧権威の崩壊という意味では悲惨であった。
 本土の廃藩置県の場合、薩長土三藩の士族兵を東京にあつめることによって太政官の権力の裏付けとした。
諸藩に砲門をむけ、反対する藩があれば容赦なく討つ、という武力態勢をつくった。
 この三藩から供出された士族兵は最初は御親兵と言い、あとで近衛と称されたが、かれらは何の目的て上京させられたかは、知らされていない。
まさか自藩をつぶすためとは思わず、やがて自藩否定という意外な結果を知って動揺し、薩摩系の近衛士官、下士官が、大挙辞職して帰国し、やがて西南戦争をおこす主力となるのである。
 この当時の多くの薩摩人にすれば、自藩の金穀と兵をもって幕府を倒したのにそこから成立した太政官政権によって藩そのものを潰され、さらには武士の栄誉も特権も経済基礎もとりあげられ百姓町人とおなじ「国民」に組み入れられるなど、これほどぶの悪い話はなかったであろう。
~中略~
 太政官政権の主力を占めて、いわば優遇されていた薩摩藩でさえ、こうであった。他の藩での悲惨さは推して知るべきだし、この日から、全国三〇〇万といわれた士族は失業するのである。
 琉球の場合は、歴史的にも経済的にも、本土の諸藩とはちがっている。さらには日清両属という外交上の特殊関係もあって、琉球処分はより深刻であったかもしれないが、しかし事態を廃藩置県という行政措置にに限っていえば、その深刻の度合いは本土の諸藩にくらべ、途方もない差があったとはいえないように思える。

P29
 雑誌「太陽」の一九七〇年九月号に、比嘉春潮氏が、「沖縄のこころ」という、いい文章を寄せておられる。
 沖縄諸島に日本民族が姿をあらわしたのは、とおく縄文式文化の昔であった。
 このころ、北九州を中心に東と南に向かって、かなり大きな民族移住の波が起こった。その波は南九州の沿海に住む、主として漁撈民族を刺激して、「南の島々に移動せしめたと考えられる。
この移動は長い年月の間に、幾度となくくりかえされた。そしてここに、言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の一支族―沖縄民族が誕生する。
 沖縄人の由来について、これほど簡潔に正確に述べられた文章はまれといっていい。
さらに「沖縄民族」という言葉については、氏がその昔「新稿沖縄の歴史」(三一書房刊)の自序において、
「フォルクとしての沖縄民族は嘗て存在したが、今日沖縄人はナチオンとしての日本民族の一部であり、これとは別に沖縄民族というものがあるわけではない」と、書いておられる。

P30
 豊臣政権下で大名になった五島氏は、明治四年の廃藩置県で島を去り、東京に移らされた。
旧藩主を太政官のひざもとの東京に定住させるというのは、この当時の方針で、薩摩の島津氏の当主忠義も、長州の毛利氏の当主も東京にいわば体よく長期禁足されていて、旧藩領に帰ることを許されていない。
このことは、最後の琉球藩王尚泰においてもおなじである。
 また「県」になった旧藩にやってくる県知事(権令・県令)も、他藩出身の者であることを原則とした。
旧長州藩である山口県には旧幕臣が知事になったし、旧肥前佐賀藩の佐賀県には土佐人がゆくというぐあいだった。
 沖縄県の場合もそうだった。ただかれら県知事がどういう人物で、不満を弾圧するためにどういう苛政をおこなったかという問題がある。しかし廃藩置県という、当時の本土の士族階級に不評判だった大変革を大筋として琉球も共同体験したということはいえるのではないか。
 むろん共同体験をしたから結構だといっているのではない。
 琉球には、それ以前、二百五十年にわたって薩摩藩から受けた痛烈な被搾取の歴史がある。~中略~
 太平洋戦争における沖縄戦は、歴史の共有などという大まかな感覚のなかに、とても入りきれるものではない。
 同国人の居住する地域で地上戦をやるなど、思うだけでも精神が変になりそうだが沖縄ではそれが現実におこなわれ、その戦場で十五万の県民と九万の兵隊が死んだ。

P39
「鉄の暴風」(住人注;沖縄タイムス刊)のなかにも、軍隊が住民に対して凄惨な加害者であったことが、事実を冷静に提示する態度で書かれている。
もし米軍が沖縄に来ず、関東地方に来ても、同様か、人口が稠密なだけにそれ以上の凄惨な事態がおこったにちがいない。
住民をスパイ扱いにしたり、村落に小部隊がたて籠って、そのために住民ごと全滅したり、それをいやがって逃げる住民を通敵者として殺したりするような事態が、無数におこったのではないか。

P32
 ごく最近、古美術好きの私の友人が、沖縄へ行った。かれは在日朝鮮人で、齢は五十すぎの、どういうときでも分別のぶあつさを感じさせる人物である。
 かれは帰ってきて、那覇で出会った老紳士の話をした。私の友人は、Rという。
―Rさんはいいですね。
 と、その那覇の老紳士は、しみじみとした口調で、「祖国があるから」と言った。相手が日本人ならば、このひとは決してこうは言わなかったにちがいない。

~中略~
 沖縄人は、比嘉春潮氏のいわれるように縄文文化以来の「日本民族の支族」であるには相違ないが、しかし独自の神話をもち独自の古典をもち、さらには世界のどの民族にも誇りうる民族文化をもっている以上、他から堂々たる独立圏としての尊重と尊敬を当然受ける権利をもっているし、そのことはむろん、復帰という歴史の再共有の出発ぐらいではとても片づかない問題なのである。


シナの学問に向かっては、沖縄には五山僧以上の独占者があった。久米三十六姓の末はすなわちこれで、彼らはこれによってこの方面の交通を立ちふさいでいたのである。
その階級を除いた一般の上流にとって、文芸の標準はやはり山城(やましろ)の京であった。関東奥羽の果てよりも、さらに因縁が薄く見えるのは単に路の遠近に比例したまでである。
 二百余年前の「混郊験集(こんこうけんしゅう)」を見るに、「伊勢」や「源氏」の物語類から、「徒然草」「太平記」などまでが豊富に引用せられている。
これが慶長の琉球入以後に、ことごとく薩摩を経て持ちこまれたものと考える人は誰もあるまい。旧文明の誇りとしては、大和にも例のない平仮名文の石碑が十いくつかも残っている。~中略~
 聖禅二道の僧も多く入っている。権現の信仰はもっぱら熊野の系統であった。彼らにたとえ伝道の志があっても、たがいの湊に訪い寄る船がなかったら、またその船人の胸の中に、似かよう何者かがなかったら、万里の波濤を越えてくる因縁は結ばなかったろう。
後に航海が自由でなくなって、寺も増さず名僧も出ず、古来の神道のみが引き続いて全盛であったために、沖縄の文明史を研究する人々に、この影響はいたって軽く見られているが、少なくとも名目なり外形なりに、今存する大和文化の痕跡も決して幽(かす)かではない。
いわんや宗教こそは平民一般の風潮に、根を持たねばならぬから衰えもしようが、彼ら帰化の大和人は、必ずしもこればかりを携えてはこなかったのである。

海南小記
柳田 国男
(著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P83












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