地付きの大名 [雑学]
実は、教科書で教えられているような、侍が城下町に住み、農耕をしない、というような江戸時代の兵農分離の姿は全国的なものではなかった。
とくに南九州、延岡から南には、とても、兵農分離とはいえない社会がひろがっていた。第一、侍の人口比率がまったくちがった。
延岡藩(住人注;譜代大名)支族比率が全人口の三・四四%である。ところが、その南の高鍋藩(秋月氏)では一八%になり、佐土原藩(島津氏)は三五%、飫肥(おび)藩(伊東氏)では二〇%宮崎県内の鹿児島藩領では三一%ととなっていて、十倍ぐらい士族の比率がちがう(日高次吉「宮崎県の歴史」)。
つまり日向の国情を見ると、延岡の内藤氏だけが、徳川系の大名で、おも立った家士とともに、この南の地に移り住み、占領軍として小さな延岡城にしがみついていたといってよい。
あとは、みな地付きの大名たちであった。地付きの大名というのは、先祖代々その地に住み、場合によっては島津のように源頼朝公の命によって地頭として赴任してきて、そのまま住みつき、戦国時代にはその地の一大勢力になって来たような大名たちで、高鍋の秋月、飫肥の伊東などはみな地元出自の大名であった。
殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)
P189
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