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波照間島 [雑学]

 波照間島は石垣から西南、なお十一里あまりの海上に孤立している。これから先はただ茫々たる太平洋で、しいて隣と言えば台湾があるばかりだが、しかもここえくればさらにまた、パェパトローの島を談ずるそうである。
パエは南のことで、われわれが南風をハエと呼ぶに同じく、パトローはすなわち波照間の今の土音である。
この波照間の南の沖に今一つ、税吏のいまだ知っておらぬ極楽の島が、浪に隠れてあるものと、かの島の人は信じていた。
 昔、百姓の年貢が堪えがたく重かった時、この島のヤクアカマリという者、これを救わんと思いいたって、あまねく洋中を漕ぎ求めて、ついにその島を見出し、わが島にちなんでこれを南波照間と名づけたと伝えている。
徐福が大帝の命をうけたのとはことかわり、これはこれは深夜に数十人の老幼男女を船に乗せて、ひそかにその縹渺の国へ移住してしまった。
その折りにただ一人の女が、家に鍋を忘れて取りにもどっている間に、夜が明けかかったのでその船は出で去った。鍋掻(なべかき)という地はその故跡ということになっている。~中略~
沖縄でも南に大海を望む具志頭(ぐしかみ)村の銀河原に、俊寛僧都同系の悲惨な話があって、磨小塘(うすおども)の遺跡はまた南の果ての島の鍋掻と対している。昔この里に住む夫婦の者、家計の不如意を愁(うれ)えている折から、一人ある僕、釣りに出でて颶風にあい、珍しい島に上がって数月を過ごした後、ある日南の風に乗じて帰ってきた。
こんな結構な島があります、お伴してまいりましょうと、五穀の種やいろいろの道具とともに、すでに女房を乗せおわってから、いつわって主人に向かって、石臼を持ってきてくれよと頼んだ。
主人は急ぎもどって臼を持って出てみると、もうその小船は沖中に漕ぎ出していて、追いつくこともできなかった。~中略~
 しかしこの話は一方に、「今昔物語」の土佐の妹背島の話にも似たところがある。
船で田植に行く幡多郡の海岸の農夫、苗と兄妹の子供とを船に乗せ、ちょっと家にもどっているうちに風が吹いて、船は沖に出てしまった。
二人ばかりその島に漂着して、せん方なくその苗を植えて、後に同胞で夫婦になったというのである。
台湾の生蕃にはほとんど各蕃社ごとに、これに似た兄妹漂流の事件をもって、部落の始めとする口碑がある。
神の怒りの大水で、臼に乗っていた二人のほかは皆死んだ。その臼のすみに挟まっていた穀物の種をまいて、新たに次の世の親となったと伝えているのである。
 波照間島の人類の始めも、やはりまた災後の兄弟で、神の恵みによって子孫をもうけたち伝えられる。ただしここでは大水のかわりに火の雨が降り、臼のかわりに白金の鍋も要するに皆、ノアの箱舟に他ならぬ。

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P123


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