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みんな違う世界で生きている [哲学]

【環境世界】:ヒトはまったく同じ環境に住んでいるように見えて、それぞれに別の意味を見出し、自分なりの「環境世界」に住んでいる。(これについては次節で述べます)。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P80

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/15
  • メディア: 新書

 

DSC_2794 (Small).JPG島根県立美術館

P81
わたしと研修医が、病棟の集会室兼食堂の壁際で話しています。何人もの患者さんが車いすでテーブルを囲んでいたり、ソファに座ってテレビを見たりしています。
呆然として虚空を見上げたままの男性や、たえず何かを呟いている老女もいます。
「君、我々は今同じ部屋にいるから同じ環境にいるよね」
「はい、そう思います」
「では我々は同じ世界にいるのかい」
 ここでたいていの研修医は困った顔をしますが、すぐに「いいえ、そうではないと思います」と、まずはほとんど正解を出します。
 二〇世紀になって、生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは、「環境」と「環境世界」は違うのであって、同じ環境にいたとしても、生物によってその環境から取り出す意味は違うと主張しました(註①)。その有名な例が「ゾウリムシ」です。
 ~中略~ 何かにぶつかって、それが食べられない物だと遠ざかり、逆にエサである腐敗バクテリアだと、これを食べる。 ゾウリムシにとっての世界は「食べられるもの」と「食べられないもの」で成立しています。
「世界を仮構する」というフレーズが実感されると思います。
  ~中略~ 先述した一水四見の喩えのとおり、同じ環境でも、その環境のもつ意味、つまり環境世界はまったく異なるのです。
 これはヒトであっても同様です。子ども好きにとっての子ども、異性に惹かれる青年にとっての若い女性は特別の存在です。他方、わたしの知る成功した実業家はこう言いました。「女、子どもと喋っても金にならん」。
 ユクスキュルは、あらゆる生物にとって「ただ主観的現実のみが実在し、そして環境世界のみが主観的現実である」と結論しました。
つまり、生物は環境中の無数の潜在的刺激のうちから、その生物固有の受容器(リセプター)に合うものだけを選択的にとり出して反応する。合わない刺激は無意味であって、存在しないのと同じです。
認知症の人が経験する環境世界は、記憶も、ある物が何であるかを認知する働きも衰えていますから、当然、なにか変ったものだということは想像ができます。
ユクスキュルは、この点についても参考になる観察をしていました。

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/15
  • メディア: 新書

 


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