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気合で治す [医療]

 もしある方針で失敗したとしても、それはベストを尽くしたことと同義であってあとは運の強さの問題でしかなかったと思い切れる場合と、多かれ少なかれ自分の浅学菲才に帰せられる場合とがあるだろう。
ときおり、前者のようなケースなのにぐずぐずと嘆いたり悩んでいる医療者を見かけるが、それはただのナルシズムの裏返しである。
そうでなかったら、医者への適性はない。後者のようなケースであったとしたらせめて失敗を今後の反省材料とするしかあるまい。~中略~
 私の印象では、臨床において、あまりにもトンチンカンな間違いをしでかして失敗に至るケースは滅多にない。
自分に対する猜疑心や心許なさがマイナス方向に作用して自滅することのほうがずっと多い。逆に、自信と確信に裏付けられていれば、実際以上の効果が上がる可能性が高い。
 この事実をもっとくだけた言葉で言えばどうなるか。おそらく「気合で治す」ということになるだろう。

「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室
春日 武彦 (著)
医学書院 (2007/07))
P018

 

DSC_3056 (Small).JPG宗像 大島

P019
 医療者として成長することとは、知識の増加と技術の向上だけではない。ある種の図太さと、さらには楽観性と諦観という矛盾した心性を身につけることだとおもう。  我々は病気や障害をどれだけコントロールしきれるものなのか。たかが知れている。ではそれ以上のことはどうなのか。もはや運勢の問題であろう。
人事を尽くして天命を待つ、というやつである。それなのに現場では、「人事を尽くす」と「天命を待つ」とのあいだに、躊躇や逡巡がするりと入り込んで事態を厄介にする。後悔や罪悪感や無力感が頭をもたげる余地を与えてしまうのである。
~中略~
おそらくこうした相反する諸要素を併せ呑んだまま、推移を追っていくこと我々には求められる。その途中で弱気になったり、過剰に心配しても胃に穴があくだけで益はない。「謙虚な確信犯」となるしかない。
思い上がりや錯覚や固執があっては困るが、目先のことでおどおどするようでも困る。とにかくすぐに結果が出ることは少ないのである。いかに宙ぶらりん状態に耐えられるかが、医療者に不可欠の能力なのである。
 ならばそれは鈍感さに近いものなのか。たぶんその通りである。ただし自覚のある鈍感さである。ダブルスタンダードのような狡さも含まれている。そしてそのようないわく言いがたい要素は、「なぜ人を殺してはいけないのか」的な設問に歯切れよく答えるのがむずかしいこととどこかつながっている。
旗幟(きし)鮮明な正義の味方には、医療はつとまらないのである。


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