新薬師寺 [見仏]
いまの奈良市街は雑然とした観光地であって、ただ処々(ところどころ)にこうした(住人注;新薬師寺へ向かう高畑の道のような)古さびた面影(おもかげ)を残しているにすぎない。古(いにしえ)の平城京はすでに廃墟(はいきょ)と化して一面の田畑である。古寺をのぞけば、普通の民家で古の姿をとどめているのはまず稀有(けう)と云っていいであろう。
~中略~
なにも好事癖(こうずへき)からではない。高畑の道筋が偶然こんな感想をもたらしたのではあるけれど、根本を考えてみるに、やはり私の不信心のためであるらしい。ひそかな祈りよりも、仏像見物の心の方がまさっていたからであろう。後ほど徒然草(つれづれぐさ)をひらいてみた折、兼好法師の次のような言葉に出会った。
「神仏にも、人の詣(まう)でぬ日、夜まゐりたる、よし。」
―昭和十七年冬―
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P216
P221
新薬師寺の「新」は、新しいという意味ではなく、霊験あらたかなるの意である。
縁起によれば、昔時(せきじ)この附近に上宮太子創建と伝えらるる香薬師寺とよぶ寺があった。
その後天平(てんぴょう)の御代(みよ)となって、聖武(しょうむ)天皇が眼病を患(わずら)い給(たも)う折、光明皇后がこの寺に御平癒(へいゆ)を祈念されたところ、幸にして恢復(かいふく)され、叡感(えいかん)のあまりその香薬師如来(にょらい)を体内仏として、丈六(じょうろく)の薬師如来を行基(ぎょうき)をして造顕せしめた、由(よ)って現在の寺が草創されたという。
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