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檮原(ゆすはら) [雑学]

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 土佐に檮原(ゆすはら)という山間のむらがある。
 幕末の志士で那須信吾(天誅組の乱で討死)や那須俊平(蛤御門ノ変で討死)などという郷士がこの檮原から出た。
「檮原のひとはえらい」
 と、高知市内のひとはよく言う。土佐のチベットといわれた信じがたいほどに農業生産の困難な土地に住みつき、代々石を割って土をつくり、わずかな山田を建造物のように造営し、水はときに渓流から汲み上げて注ぎ、平安末期にこの村ができて以来、それほどまでして生きねばならないかと思えるほどの労働を重ねて、昭和三十年ぜんごまでいたっている。あるいはこんにちなお、そうかもしれない。
「檮原の千枚田(せんまいだ)」
といわれる。
~中略~
 土佐の檮原は、高知県の西北角の愛媛県境にちかい山中にある。山口県の秋吉(あきよし)台に似たカルスト地形の土地で、溶食された石灰岩が無数に土中にかくれていたり露出していたりして、ここを拓くというのは、まず石を抱きあげてとりのぞくということからはじめねばならなかった。
 律令体制というのは、都の貴族や寺院のためにのみあったといっていい。全国の農民は「公民」のという名のもとに公田に縛りつけられ、点蝕や移住、まして逃散(ちょうさん)の自由はなく、働く器械のようにあつかわれ、収穫の多くを都へ送らせられた。律令制は広義の奴隷制だったといえるであろう。
 ひとびとは租税を納められなくなって逃散した。かれらの多くは中央集権の拘束力のややゆっるい関東や奥州に流れたりしたが、中央集権の目のとどきにくいところといえば、かならずしも関東や奥州だけではない。
大山塊のなかの秘境のような所も、逃亡先としてわるくはなかった。この土佐檮原も律令の逃亡者が吹きだまりのように溜まって拓いた隠れ里であるという解釈を「檮原町史」はとっている。 卓見といっていい。

P13
 大陸と違い、小さな島国では、小さな収穫を得るために信じがたいほどの過大な労力をはらって耕地を造らざるを得ず、檮原のような営みは古来日本の各地でつづけられてきたし、このことは日本人の性格を形成する要素の一つになっているような気がする。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
 

DSC_0732 (Small).JPG四国カルスト

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