SSブログ

平清盛 [雑学]

 平清盛は、経世家としては、頼朝以上だったであろう。かれは海運をさかんにし、対宗貿易をもって立国しようとしたという点で、日本最初の重商主義の政治家だったといっていい。頼朝は農地問題の累積した不合理性をただすという旗幟(きし)をかかげ、清盛は公家による農地支配体制を温存したまま商業と貨幣経済を興すことに賭けた。
 清盛はこのため、外洋航海の基地としての一大港市を設けようとし、大輪田(おおわだ)の湊(みなと)(いまの神戸港)を建設した。この港は遣唐使船時代以来の良港とはいえ、一条件だけ欠けていた。つまり西に和田岬が突き出て風浪をふせいでいるが、東にはなにもなく、風むきによっては停泊中の船までひっくりかえってしまう。清盛はこの東側に人工島(経ヶ島)を築くという当時としては大がかりな工事をやって、外洋船が安んじて泊まれるようにした。
当時、このあたりは福原といった。清盛は晩年、瀬戸内海水路の奥ともいうべき福原に帝都を遷(うつ)そうとしたほどにこの貿易政策に熱中したが、しかしながら当時、国民経済としての商品経済が、ほとんど無いにひとしく、いわば農民とそれを収奪する貴族だけの社会だったために、ひとびとは清盛の感覚についてゆくどころか、理解さえできなかった。
 ともかくも清盛は大宰府に腹心の家人を置いていまの博多港(当時は、大津浦)を管理し、また下関港を整え、さらには途中の寄港地としての安芸海岸の厳島に氏神を奉じて社殿を壮麗にし、かつ福原をもって貿易基地にしようとした。
この構想力は、まだ農業だけが産業というこの時代に適(あ)わなかったとはいえ、ただの人間ではなかったことを思わせる。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P160

IMG_0058 (Small).JPG

神戸市


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント