偏界かつて蔵(かく)さず [倫理]
賢者は愚者からも学ぶが、
愚者は賢者からさえも学ばない。
学ぶべきことは、身の周りにいくらでもある。
見渡せば、ありとあらゆるものが、何かを教えている。
丸山 敏秋 (著), 倫理研究所
幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝
近代出版社 (2001/11)
P84
私はよくひとから、楽しむことが多くて、仕合せな人だ、と祝福されますが、それは自然を見たり聞いたりするのが好きだからです。
花にも木にも哀歓があるし、鳥がはばたいても、けものが欠伸(あくび)しても興味をもちます。
四季の移り変わりも、風雨も、海も山も、水も石も、私にはおもしろいものだらけにみえます。
しかもこれらを見聞きする楽しみは、よその人に迷惑をかけず、自分ひとりで自由に得られる喜びですから、この点がまた気楽です。
幸田 文 (著), 青木 玉 (編集)
幸田文しつけ帖
平凡社 (2009/2/5)
P223
[第四十一段] 五月五日に、賀茂の競馬を見に行ったところ、前の車に群衆が立ちはだかって見えなかったので、めいめい車からおりて、柵のそばによったけれど、格別大勢込み合っていて、とても割りこめそうにない。
こういう時に、向かい側にある樗(おうち)の木に、坊さんがのぼって、木の股に腰をかけて見物していた。つかまりながら、ひどくいねむりをして、何度も落ちそうになると、目をさました。
これを見ている人たちが、あざけりあきれて、「大馬鹿者だ。あんなあぶない枝の上で、よくも安心して、寝られるものだ。」と言うので、心中にふと浮かんだままに「我等が生死の到来も、ただ今、即刻かもしれない。それを忘れて、物見て日を暮らす。愚かなことは、あれ以上なのに。」と言ったところが、前にいた人たちが、「本当にそうでした。一番愚かです。」と言って、皆うしろをふり返って、「ここへおはいりなさい。」と、席をどいて、呼びこんでくれた。
これくらいの道理は、誰でも気が付かないはずはないのだけれど、ちょうどあの場合、うっかりしていて、胸にこたえたのであろうか。
人間は木石ではないから、その時によって、ものを感ずることがないわけでもない。
徒然草―現代語訳
吉田 兼好 (著), 川瀬 一馬
講談社 (1971/12)
P209
この店には足繁く通ったのだが、年明けにカズちゃん(石巻市内の商店街「アイトピア通り」で、「まるか」という食料品店を夫婦で営むカズちゃんこと佐々木和子(63))はこんなことを言った。
「毛ガニがこの時期にこんなに獲れたことはない。海の底がぐちゃぐちゃになっていて、大きな地震が起こるんじゃないかって、本当におそろしいよ」
そのときは、まさかと思ったのだが、あれは本当だったねと言ったらこう応えた。
「あのとき揚がっていたのは子を持ったメスの毛ガニばかり。今思えば、子孫を残すために疎開していたんだね。つい最近は、ネズミの姿を見ないって話をしたばかりだった。気づかなかったのは人間ばかり。人間はバカだね」
<ルポ>石巻市・希望と再生を求めて
高成田 享 (前朝日新聞石巻支局長)
世界 2011年 05月号
岩波書店; 月刊版 (2011/4/8)
P225
「三密 刹土(せつど)に遍(あまね)く(仏の御業は国土にあまねく)
虚空に道場を厳(かざ)る(虚空に荘厳な浄土の世界を作っている)
三毫(さんがう) 溟墨(めいぼく)を点じ(山は筆となって大海原の墨池に墨をつける)
乾坤(けんこん)は経籍(けいせき)の箱(さう)なり」(天地は経典の入れ物)
(弘法大師 空海「遍照発揮性霊集」巻第一)
ボクは坊さん。
白川密成 (著)
ミシマ社 (2010/1/28)
P128
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