学問の旨 [学問]
人たるものはただ一身一家の衣食を給しもって自ら満足すべからず、
人の天性にはなおこれよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、
その仲間たる身分をもって世のために勉むるところなかるべからず
福沢 諭吉 (著)
学問のすすめ
岩波書店; 改版版 (1978/01)
P105 学問のすゝめ 十編
師の教をうけ、学問する法は、善をこのみ、行なふを以(て)、常に志とすべし。
学問するは、善を行はんがため也。人の善を見ては、我が身に取りて行ひ、人の義ある事をきかば、心にむべ(宣)なりと思ひかん(感)じて、行ふべし。
和俗童子訓 巻之二
総論 下
養生訓・和俗童子訓
貝原 益軒 (著), 石川 謙 (編さん)
岩波書店 (1961/1/5)
P231
「古人の学というのは、書物のうえの修業ではなく、自分の心の修業である。
したがって天賦の性能を生かし、日常事物のうえで工夫すること、すべてこれ学でないものはない。
しかし、後世の学者は日常のことには心を用いず、ただ書物のうえだけで物ごとを会得しようとする。
これは古人の学を学ぶことではなく、その奴隷にすぎぬ。
~中略~
学問の第一は、心において道理をきわめて、日常生活のうえに実現することであり、それは聖賢がなすものであるから、学問とは聖賢になるための修業である」
横井小楠―維新の青写真を描いた男
徳永 洋 (著)
新潮社 (2005/01)
P38
修学の四標的
如何なるかこれ四箇の標的。一に曰く、正なり。二に曰く、大なり。三に曰く、精なり。四に曰く、深なり。
~中略~
正、大、精、深。是の如きは陳套である。今更点出して指示されずとも我既にこれを知れりという人もあろう。如何にも陳套である、新奇のことではない。しかし、修学進徳の標的としては、此の如く適切なものはない。
陳の故を以て斥け、新の故を以て迎えうるは、軽薄の才子と淫奔の女子との所為である。
~中略~
正とは中である。邪僻偏頗、詭詖傾側ならざるを言うのである。
~中略~
いわんや書を読んでいまだ万巻に達せず、識いまだ古今を照らすに及ばざるほどの力量分際を以て、正を失わざらんとするの心甚だ乏しく、奇を追わんとするの念転(うたた)盛んにして、たまたま片々たる新聞雑誌などの一時の論、矯激の言等に動かされ、好んで傍門小径に走らんとするは、甚だ危いことである。
くれぐれも正を失わざらんとし、自ら正しくせんとするの念を抱いて学に従わねばならぬ。
大は人皆これを好む。多く言うを須(もち)いぬ。
~中略~
修学の道最も自ら小にするを忌む。自尊自大もまた忌むべきこと勿論であるが、大ならんことを欲し、自ら大にすることを力めるは最も大切なことである。
~中略~
大には広の意味を含んで居る。今や世界の智識は相混淆し相流注して一大盤渦を成して居るのである。
この時に当たって学を修むるものは特に広大を期せねばならぬ。眼も大ならねばならぬ、胆も大ならねばならぬ。
~中略~
精の一語はこれに反対する粗の一語に対照して明らかに解し知るべきである。
~中略~
「一事が万事」という俗諺の教うる如く、学を修むるものにしていやしくも学の精なるを力めざるが如くんば、その人万事の観察施設皆精ならずして、世に立ち事に処するに当たっても自ら過を招き失を致すこと、けだし多々ならんのみである。これに反して学問その精ならんことを力むるにおいては、万事に心を用いる、また自ら精なるを得て、知らず識らずの間に多く智を得、多く事を解するに至り、世に立ち事に処するに当っても、おのずから過を招き失を致すこと、けだし少かるを得べきである。
~中略~
深は大とはそのおもむきが異なって居るが、これもまた修学の標的とせねばならぬものである。
ただ大なるを勉めて深きを勉めなければ、浅薄となる嫌がある。ただ精なるを勉めて深きを勉めなければ、渋滞拘泥のおそれがある。ただ正なるを勉めて深なるを勉めなければ、迂闊にして奇奥なるところなきに至る。
(明治四十四年三月)
努力論
幸田 露伴 (著)
岩波書店; 改版 (2001/7/16)
P81
「君は将来、なにをしようとするのだ」
「学問の目的どおりである」
「学問の目的とは?」
「治国平天下」
と、晋作がいうと、久坂(住人注;玄瑞)は、
「治国平天下という表現は、泰平のときにこそふさわしい。おなじ意味ながら、いまの世なら、救国済民と言いたまえ」
世に棲む日日〈2〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/03)
P96
貯えた知力がいかなる時に役に立つかは、分からぬものである。分からぬけれども、早晩役に立つ。
ただ目前に横たわる必要のためにのみ得る知識は、それはドイツ人のいうパン学問である。
パンを得てしまえば、もはや役に立たぬ。ゆえにいかなる時にも、いかなる場合にも利用なし得ることのできる知識を、平生貯蓄することを心がけた。
かかる知識を養いかつ貯えるには良書を読み、有益な談話を聞き、自分以上の人と交わり、あるいは静座黙想し、しかして心に得たことは、これを心の蔵のうちに奥深く入れるようにしたい。
修養
新渡戸 稲造 (著)
たちばな出版 (2002/07)
P260
この人〔田中長三郎〕の言に、日本今日の生物学は徳川時代の本草学、物産学よりも質が劣る、と。
これは強語のごときが実に真実語に候。むかし、かかる学問をせし人はみな本心よりこれを好めり、しかるに、今のはこれをもって卒業また糊口(ここう)の方便とせんとのみ心がけるゆえ、おちついて実地の観察することに力(つと)めず、ただただ洋書を翻読して聞きかじり学問に誇るのみなり。それでは、何たる創見も実用も挙がらぬはずなり。
(49)「全集」、第七巻、二八ページ。
南方熊楠 地球志向の比較学
鶴見 和子 (著)
講談社 (1981/1/7)
P68
総て学問は、存心、致知、力行の三つなり。
(中庸講筵録」)
総じて学問は、存心(自分の気持ちをしっかり持つこと)、致知(物事の筋道を極めていくこと)、力行(努力すること)の三つが基本である。
山田方谷のことば―素読用
山田方谷に学ぶ会 (編集)
登龍館 (2007/07)
P17
本当の学問というものは、立身出世や就職などのためではなく、窮して困(くる)しまず、憂えて心衰えず、禍福終始を知って、惑わないためである。(荀子)
知命と立命―人間学講話
安岡 正篤 (著)
プレジデント社 (1991/05)
P13
学問の功は、惑いを弁(べん)ずるより先なるはなし。
惑いの本根(ほんげん)は、意の一病(いちびょう)にあり。
好悪(こうお)の凝滞(ぎょうたい)、是非の素定(そてい)、およそ功名利害(こうみょうりがい)・毀誉得喪(きよとくそう)・死生禍福(しせいかふく)・一切外魔(いっさいのげいま)、みな意念(いねん)より起る。
所謂(いわゆる)万欲(ばんよく)は意に生ずるの義なり。
是(ここ)を以(もつ)て明徳を明らかにするの工夫、全(まつた)く意を誠(まこと)にするにあり。 (「古本大学全解」)
中江藤樹 人生百訓
中江 彰 (著)
致知出版社 (2007/6/1)
P190
P126
義に背く行いをすれば、心の苦しみとなる。私は、心の苦しみから逃れようとして学問をしているのに、わざわざ不義に走って心を苦しめてどうするのか。
※生を舎(捨)てて義を取る 「孟子」(告子上篇)に「生も義も取りたいが、どちらか一つ選べといわれたら、私は義を取る」(生も亦(また)我が欲する所なり、義も亦我が欲する所なり。二つの者兼ぬることを得べからざれば、生を舎てて義を取らん)とある。
P129
商人としての正しい道を知らない者は、利を貪ることにのめり込み、かえって家をつぶしてしまう。それに対し、商人としての道を悟れば、欲得ではなく、「仁」を心がけて仕事に励むので、家は栄える。そのようにするのを「学問の徳」としているのである。
石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
石田梅岩 (著), 城島明彦 (翻訳)
致知出版社 (2016/9/29)
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