聖書の読み方 [宗教]
聖書という本を取り上げて、だいたいこういうことが書いてある、という程度のことはいえるとしても、聖書の主張はこうだということはとても難しく、あるいはほとんど不可能なことのように思えます。
まず、聖書は時代も文化もまったく違うところで書かれたものだからです。人はよく聖書に人生訓を見ようとしますが、もともと現代人に向けて書かれたのでも、日常生活の知恵を主題にまとめられたものでもありません。しかも聖書は多くの人々の書いたものをあとから集めて編集したものなので、そもそもそこにひとつのまとまった主張があるかどうかすらわかりません。
しかし、一方で、聖書は有名な古典でもありますから、こんなふうに解釈されてきた、という歴史があります。その解釈は、ひょっとすると聖書に対する誤解なのかもしれませんが、そのような伝統があるのもたしかです。
聖書といって私たちがふつう思い浮かべるのは、たいてい場合、実はこの伝統のことです。しかし、それは、聖書そのものを丁寧に読むこととと必ずしも一致しません。
大城 信哉 (著)
あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本
永岡書店 (2010/4/10)
P253
キリスト教は確かに聖書に依拠している、だが、聖書はキリスト教にその存立を依存しているわけではない。
いわばキリスト教の一方的な片思いだから、たとえキリスト教が消えても聖書は残る。
この関係はあくまでも明確にしておかなければならない。
日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)
P174
橋爪 前略~
なぜ福音書がいくつもあるのかというと、福音書は、預言書(預言者の預言を記録した書物)ではないからです。預言書(たとえば、「イザヤ書」)は、預言者本人が書いた(ということになっている)ので、二冊あったりしない。預言者ひとりに、一冊ずつです。これに対して、イエスは、自分で書物を書かなかった。
最後は十字架で死んでしまうという話ですから、本人はそれを記録するわけにはいかない。別人がそれを記録し、証言するというかたちにならざるをえない。
このように福音書は、イエス・キリストについて証言する書物なのです。
~中略~
もう少し補足すると、キリスト教は、福音書によって成立したのじゃないんです。福音書は、キリスト教が成立したあと、聖書に選ばれた。
では、いつキリスト教が成立したかというと、それは、パウロの書簡によってである。パウロが書簡を書いたのは、福音書の成立時期よりも古いんです。福音書を見ないで、パウロは書簡を書いている。
そのときもう、イエスはキリストであり神の子だと確信していあた。パウロが、イエスの十字架の受難を意味づける教理を考えたので、ユダや教の枠におさまらない、キリスト教という宗教が成立した。それが、福音書の編纂をうながしたという順番なのです。
~後略
大澤 なるほどね。新約聖書というと福音書のイメージが強いかもしれませんが、言うまでもなく新約聖書の重大な部分はパウロの書簡です。~略
ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P139P
P119
私の確信するところによれば、聖書をよく理解すればするほど、即ち、われわれが一般的に解釈し、特にわれわれ自身にあてはめて考える一つ一つのことばが、ある事情、時、場所の関係に従って、独自の特殊な直接個人的な関連をもっていたことを悟り、味わえば味わうほど、聖書はますます美しくなる
(「格言と反省」から)
P120
それゆえ、聖書は永遠に感化を与える書物である。なぜなら世界のある限り、「私は聖書を全体としても個々についても理解している」と言うような人は現れないであろうから。われわれはむしろ「これは全体として尊ぶべく。個々については応用し得る」と、謙遜して言うであろう。
(「格言と反省」から)
ゲーテ格言集
ゲーテ (著), 高橋 健二 (翻訳)
新潮社; 改版 (1952/6/27)
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