大きにお世話と大きにご苦労 [対人関係]
世話の字に二つの意味あり、一は保護の義なり、一は命令の義なり。
保護とは人の事につき傍らより番をして防ぎ護り、或いはこれに財物を与え或いはこれがために時を費やし、
その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。
命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを差図し、不便利ならんと思うことには異見を加え、心の丈を尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり。
福沢 諭吉 (著)
学問のすすめ
岩波書店; 改版版 (1978/01)
P149
~中略~
保護の至る処は即ち差図の及ぶ処なり。差図の及ぶ処は必ず保護の至る処ならざるを得ず。
もし然らずして、この二者の至り及ぶ所の度を誤り、僅かに齟齬することあれば、忽ち不都合を生じて禍の源因となるべし。
~中略~
差図の世話は厚きに過ぎて保護の世話の痕跡もなきものなり。諺にいわゆる大きにお世話とはこの事なり。
~中略~
5升の御救米を貰うて三升は酒にして飲む者なきに非ず。
禁酒の差図も出来ずして漫(みだり)に米を与うるは、差図の行き届かずして保護の度を越えたるものなり。
諺にいわゆる大きに御苦労とはこのことなり。
千金も一時の歓を結び難く、一飯も竟(つい)に終身の感を致す。
蓋(けだ)し愛重ければ反って仇となり、薄極まりて翻(かえ)って喜びを成すなり。
洪自誠
守屋 洋 (著), 守屋淳 (著)
菜根譚の名言 ベスト100
PHP研究所 (2007/7/14)
P127
せっかく大金を与えても「ありがとう」の一言すら聞けない場合もあるし、
いちど飯を恵んだだけで、一生感謝される場合もある。
思いやりも、度が過ぎれば反感を買い、わずかな施しでも、心から喜んでもらえる場合もあるのだ。
P74
アドラー心理学では「これは誰の課題か」といういい方をします。
誰の課題かは最終的に誰が責任を引き受けなければならないかを考えればばかります。
あるいは、ある選択の結末を誰が最終的に引き受けるのかを考えればわかります。
たとえば、勉強は誰の課題かといえば子どもの課題です。
勉強が子どもの課題であるとすれば、いきなり「勉強しなさい」と親がいうことは
、子どもの課題に踏み込んだことになり、子どもとの衝突は避けることはできません。
他方、子どもが勉強をしないことが気になるとすればそれは親の課題です。
原則的にいえば人の課題を引き受けることはできませんし、
自分の課題を他の人に解決してもらうこともできません。
~中略~
これは誰の課題、これは誰の課題というふうに課題をきちんと分けていかなければなりません。これを「課題の分離」といいます。
頼まれてもいいないのにこちらが勝手に判断して、相手は助けを必要としているであろうと考えて手出し口出しをしないということです。
アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
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