私とは [哲学]
京極 でも、近代的自我って結構堅固ですから、「私は私ななんだから」と言っている人に、「根拠は何?」ときいた時に「だって私なんだもん」と無為な問いかけのループしか起きないでしょう。
そこがちょっと悲しいですね。
私はほんとに私なんだろうかと疑問に思い、そうでないとしたら何なんだろうと考え、やがて私は私でなくたっていいじゃないと思う気持ちが幅をつくる。
「私は私なんだから」と言い続けていると、悪いことをしたくなるかもしれないし、死にたくなるかもしれない。
つまりは行き場がなくなるということですよ。
京極夏彦
玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P28
美保の埼
P29
京極 私たちは異常と正常の間のどこかに常にいるわけです。
カッカしているときの自分と冷静な時の自分、お互いに接点は何もないわけですよ。
人間なんてそんなもので、無段階に変わっていく位相をたくさん持っているんだと認められれば、それは一つの許しなんだろうし、多生のことではへこたれないと言う気はします。
京極夏彦
P37
近代社会とは、確たる「個人」が成立前提です。だからこそ、近代になって「自分とは何か」という問題が生きていくための一般的な主題になったわけです。
近代以前では、「集団の要素」「集団において、それ以上分割できない単位」としての概念でしかなかった個人が、意思決定や行動決定の主体としての個人へと転換されたわけです。その転換は、宗教中心の文脈で言えば、プロテスタンティズムというムーブメントによってもたらされたと見ることができます。
さて、この近代「個人」を規定するものとして重宝されたのが、「自我」という概念です。日本語の「自我」はもともと仏教用語です。アートマンというサンスクリット語の訳で、他者に対する我れ、というニュアンスです。ヒンドゥー文化の宗教では、こいつが私の本性であって、輪廻の主体とされています。
近代になって、「自我」は人間を考える上で重要な概念となりました。エゴやセルフの訳語として使われ、<私>というものをうまく説明するための仮説としても使勝手のよいものとなったと言えます。
P46
経済のバブルは崩壊したものの、自我のバブルは続いているのではないでしょうか。実体もないのに情報によって泡立てられている。”バブル状態”です。もはや自分でコントロール不能なほど肥大した自我を抱えて苦しんでいるのが、今の私たちです。
新書のような教養本がよく売れたり、宗教本が売れたりするのも、肥え太った自我と現実との落差を埋めるための理論武装じゃないかと思うのです(自分でも書いていて、こんなこと言うのもなんですが)。
P330
私たちは自我を機能させないと社会適応できない、反面、その自我をもてあますのです。
肥大した自我をどこかで点検しなければ、この苦悩は低減できません。そのためには、自分を読み解く手順、この世界を読み解く手順を身につけなければなりません。もちろん、それに応える体系は「宗教」だけではないでしょう。読み解く手立ては、社会学や文学や医学にもあるにちがいありません。でも、宗教という回路でしかありえない領域があるのです。
それは、宗教がもつ非日常体系という世界です。今回、これを「出世」や「外部」と表現しました。宗教は、外部へと行く力を提供します。だからこそ、この世界を、この私を相対化できるのです。
でも、それだけじゃありません。宗教と言えば、外部へ向かう方向性ばかりが注目されますが、そこから戻る力が大切なのです。練り上げられてきた「宗教」には、日常の多重性へと回帰する道筋が描かれています。非日常の回路を開き、日常へと還元し、豊饒なる日常を味わうことができるからこそ、私たちは「社会と異なる価値体系」や「不合理」を生きる力にすることができるのです。
いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
いかに精神分析的な知識が豊であっても、それが己を知る方向に活用されないかぎり、当人の救いにはなりがたいものである。
セルフコントロール―交流分析の実際
池見 酉次郎 (著), 杉田 峰康 (著)
創元社; 新版 (1998/11)
P245
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