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相手を理解できたと考えてはならない [ものの見方、考え方]

 「理外の理」「法外の法」「言外の言」を考えれば、日本語が少々わかるから、日本の小説などが少しは読めるからといって、日本が理解できるなどと考えてはならないことは、異論の余地なき事実であろう。
このことは逆もまた真なりであって外国語がペラペラだからといって、外国が理解できたと考えてはならない。
ただこの場合の障壁は「言外の言」でも「法外の法」でもない。いわゆる聖書の民(ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒)への障害は、黙示文学、黙示文学的表現、および聖書の引用である ~中略~

前記の引用を外国語に訳すことが非常にむずかしいように、聖書の句や黙示文学的表現が縦横かつ無意識に使われている外国文学を正しく日本語に移すことは、はっきり言って不可能である。
こまったことに聖書の句が、いつの間にかまったく反対の意味で日本で通用してしまう場合もあるので、ことがさらにややこしくなる。

日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)
P155

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1971/09/30
  • メディア: 文庫

 

-8b040.jpg山荘 天水5

 もう一つ大切なのは、「理解し合うこと―理解を共有すること―が大事」という前提に立っておくことです。
 自分自身の感情、思い、考えを、相手に理解してもらうこと。これほど大切なことはありません。
「わたしはこう感じている」「こう考えている」ということを、伝えること、相手に理解してもらうこと。それを目的にすえるのです。
 もし相手が理解しようとしない、聞こうとしないのなら、それはもはや、関わる意味のない相手なのかもしれません。どのような関係であれ、一方的な苦痛に耐えなければいけない関係は、存在しないはずだからです。
 ただ、伝えることで相手が理解してくれる可能性があるなら、「理解してもらう」ことを目的にすべきです。伝えること。説明すること。
「こういうことはやめてほしい」と思うなら、「やめてほしい」と伝えることです。そこまでが自分自身にできること。それを相手がどう受け止めるかは、相手の領域です。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)
P118


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