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共同体感覚 [社会]

赤信号で止まらなければならないのはなぜかという質問をアメリカ人にしたところ七〇パーセントは「警官に見つかるとつかまるから」と答えたという報告があります。 賞罰の育児の結果である、と考えることができます。
 二五パーセントは「私が怪我をするから」と答えました。これは先の答えよりましかもしれませんが自己中心的です。
五パーセントだけが、「私もけがをするけれど、他の人にも被害を及ぼすかもしれないから」と答えました。
 ある状況が自分にとってどういうことかをまず考えるのではなく、皆にとってどういうことなのか、いいことなのか、悪いことなのかを考えられるということ、その中で自分がどう貢献できるかを考えていくことは、健康なパーソナリティ、幸福であることの大きな条件です。

 このように常に自分のことだけではなく、他者のことも考えられる、他者は私を支え、私も他者とのつながりの中で他者に貢献できていると感じられること、私と他者とは相互依存的であるということ、しかし、同時にそのことは決して自己犠牲的な生き方を善しとする考えでもなく、自分も他者に貢献ができていると思えること・・・・このような意味のことをアドラーは、 アドラー派の中でも議論の多い「共同体感覚」という言葉で表そうとしているのだ、と私は考えています。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
岸見 一郎 (著)
KKベストセラーズ (1999/09)
P111 

TS3E0340 (Small).JPG到津の森公園

P112
人が基本的に理想として持っているのは「所属」しているということ、共同体に受け入れられているということである、とアドラー心理学では考えています。しかしこのことは何もしないでただ受動的に受け入れられるというのではなく、積極的に受け入れてもらうということです。
その方法はさまざまで、先に見た優秀であることで認めてもらおうとしたり、まわりの人の注目を引くような行動をすることによって受け入れてもらおうという考えは健康的な考えではない、と考えるわけです。

  ここでいう「共同体」というのはさしあたって自分が属する家族、学校、職場、社会、国家、人類・・・・という集団のすべて、過去・現在・未来のすべての人類、さらには生きているものも生きていないものも含めたこの宇宙の全体を指している、と考えていいのですが、アドラーはこれを「到達できない理想」である、といい(Individualpsychologie in der Schule,S.20)、どこにも既存の社会であるとはいっていません。


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