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津和野藩 [雑学]

「哲学」
 ということばが西周によって作られたように、日本の人文科学の術後の多くは西周の翻訳もしくは創作にかかる。
こんにちわれわれがようやく表現力に富む日本語を共有できるようになったその明治期の基礎にこの西周が巨人として存在し、さらにはその西家と川をへだてて向いにうまれた森鴎外に負うところが多い。
ただし、小藩である。
 長州藩に攻められてはひとたまりもないであろう。しかも地勢上、長州藩領の徳佐付近が台形の形状をなし、それが隣の津和野藩城下になると急に落ち込んで谷になる。長州からはじつに攻めやすい。  

花神 (中)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
P444 

DSC_9748 (Small).JPG平山温泉

「津和野とは、ツワブキの生える野」
 という意味です、ということをしばしば耳にした。ツワブキとは石蕗 などと書く。
われわれは旧長州藩領からいきなり入ってしまうが、この入り方は、このツワブキの里に対して礼を失した入り方かもしれない。
 日本海岸から川をさかのぼって入るという旧三陰道をとるべきかもしれない。海へそそいでいる川は高津川である。それをのぼってゆくと、西側の山がしだいにせまって津和野川にいたる。
 さらにのぼると、この山峡のはてに桃源郷があるのではないかという気分になり、ついに津和野にゆきつく。
 が、われわれはそれとは逆に、内陸の旧長州藩の国境から入った。津和野にとって裏口ともいうべき方角であり、もし津和野に地霊があるとすれば、この方角から津和野に入ることをきらうにちがいない。
~中略~
 この谷底の城下町の藩医の長男にうまれた鴎外森林太郎は、このとき満四歳であった。すでに藩儒米原綱善の家に通って素読の教授をうけていた。城下の頭上におしよせてくる長州軍についての恐怖をどう感じていたであろう。
 幕府からは、軍目付(いくさめつけ)として長谷川久三郎いう者が乗り込んでくる。この長谷川に対する応接は、国学者福羽美静の父の幸十郎が担当し、一方、長州藩に対しては、子の美静が出かけていって、
「津和野を攻めないでほしい」
 と、頼みこんでいる。福羽美静は明治帝に最初に「古事記」を進講した人物であり、明治政府の神祇官として神道行政を総攬した人物である。
津和野は小藩ながら国学がさかんであった。同時に西周などを輩出したように蘭学もさかんであり、要するに当時の日本の多くの小藩がそうであったように、武よりも文が盛んであった。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)
P244


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