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医者はシャベリが命 [医学]

 医者の仕事はまずもって患者さんとの対話から始まる。それは病状を把握するためにも互いの信頼関係を築くためにも欠かせない、基本中の基本のプロセスだ。であれば言葉を操れるということは、医者が備えるべき最低限のスキルということになる。異国の医療現場に飛び込むなり、僕はそのことを痛いほど思い知った。

「NO」から始めない生き方~先端医療で働く外科医の発想
加藤 友朗 (著)
ホーム社 (2013/1/25)
P130

P1000117 (Small).JPG

P95
中川 告知っていうのは、病名ががんであるということを告げるっていうのは、まず入り口です。でもそこには、やはりさまざまな内容があります。たとえば、命がもう1か月もたないというような告知のあり方もありますし、たとえば、患者さんの体で起こっている病態を説明するような告知もあります。
 ですから、一口に告知といってもかなり幅があって、それほど簡単じゃないんですね。「あなたはがんで1か月後に死にます」と紙に書いて済むというようなことはできないわけで。
養老 それはそうですね。
中川 最近思うんですけど、がんの告知というのは、やっぱり先生のようなですね、なんていうんですかね、深みのある役者というんでしょうか、自分に中身がないとできないですよ、良い告知は。
 ですから、医者の力量が試される瞬間かなという気はします。多少の演技力は必要です。そうした能力がないと、なかなかきびしい話ができません。

P129
 告知という言葉には、何か医師が一方的に患者さんに病名を告げるといった印象がありますが、主体はあくまでも患者さんです。
患者さんには自分の病気について知る権利がありますから、情報を開示するスピーカー役として、医師を使うという立場なのだと思います。
 自分で納得できる治療を選択するためには、正しい病名を知って、現在の病状を把握することからはじまります。そこから医師と一緒になって、最善の治療法を考えていこうというのが、インフォームド・コンセントであり、がんの告知の考え方なのです。
(住人注;中川恵一)

自分を生ききる -日本のがん治療と死生観
中川恵一 (著), 養老孟司 (著)
小学館 (2005/8/10)


 小笠原文雄(ぶんゆう)医師は、ひとは死に時を選ぶという信念の持主です。いえ、正確にいえば持ち主でした。
 これまで看取ったおひとりさまのうち、たったひとりで誰にも見送られずに亡くなったひとはいない、と。あるひとはかわいがっていた孫が駆けつけるのを待っていたかのように息を引き取り、またあるひとは、大好きなヘルパーさんがたまたま訪問したときをみはからったようにそのひとのいるときに亡くなった、とか。
 その考えが最近変化したそうです。看取り経験が積み重なるにつれ、そうでない事例が増えてきたからです。同居家族がいる場合でも、寝ているあいだに亡くなったり、親族一同が集まっているのに、誰にも気づかれずに息を引き取っていたり。臨終は時間の問題といわれて枕元で待機している家族に、「いつまでも苦しんでいるが」と問われて、小笠原医師は「あなたが休まないと、本人も安心できないのよ」告げて休んでもらい、そのあいだに亡くなったとか。おおぜい側にいながら誰も臨終に気がつかなかった、と責め合う家族には、こんなふうに言うのだとか。「側にいたのに、誰も気がつかないほど、ご本人は安らかに逝かれたということですよ」と。
 とっさの判断とはいえ、遺された家族の気持ちの負担を軽くしてあげる小笠原さんの声かけの技技量には感嘆のほかありません。小笠原さんは実は副業(どちらが本業かはわかりませんが)が僧侶。お坊さんならではの死生観の裏付けがあるからこその対応でしょう。誰にもまねのできるものではないでしょうが、もともと医者の仕事のひとつに、ドイツ語のムンテラことムントテラピー、日本語でいうと「口先療法」があります。それだって医者の大事な役目のひとつ。医者の心ない一言で傷つくひともいれば、反対に慰めのことばで救われるひともいます。
 要は小笠原医師の患者さんのなかにも、誰かに看取られて亡くなる人も、誰もいないところで亡くなる人も、さまざまだということ。それに解釈を与えるのは遺された者たちのほうです。

おひとりさまの最期
上野千鶴子 (著)
朝日新聞出版 (2015/11/6)
P260



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