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道徳というもの [倫理]

P86
道徳について、私がいつも気になることは、どうも道徳ということを、一般的には、何か我々の生活上の特殊な問題のように考える癖がついている。
特殊なこと、不自然なこと、無理なこと、強制しなければできないことのような、そういう先入観念があります。これを先生たる者、教育者たる者は、まず直さなければならないと思う。
 人間が禽獣的・動物的段階からだんだん発達してくるにつれて、善であること、美であること、真実であること、神聖ということ、つまり価値観というものができてきました。
そして現実の上に理想が考えられるようになってきて、だんだん動物と違うようになってきた。
そこに自然に生じてきたものが道徳というものであって、道徳とは、一般概念と違って、最も自然なものなのです。
道徳とは特殊なもの、不自然なもの、何か作為的なもの、強制的なものだと考えることが根本的な間違いで、逆に、道徳というものが一番自然なもの、最も真実なものであるということは、はっきりわきまえなければいけない。また、わきまえさせなければいけない。これをなくしたら、元の禽獣にはね返ってしまう。
 早い話が飲食をするということ、飲んだり食ったりするということが、これからして実は道徳なのです。人間ともなれば、犬や猫のようにはできぬ。飲食の仕方が違ってくる。

P88
 西洋でも物のわかった学者は、宗教と道徳とを区別したのは、人間のとんでもない間違いだと言っておるが、その通りで、広い意味において、人たることは道徳なのだ。すべて、人間はいかに生くべきかということなのであって、これを間違えたら人間は破壊してしまう。

P90
 つまり道徳というものは、小なり大なり人間のあり方、人間の行動をいかに自然にするか、いかに真にするか、美にするか、人と人との間をいかに良くするかです。これが道徳です。

安岡正篤
   運命を開く―人間学講話
  プレジデント社 (1986/11)
  

人間学講話第2集 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

人間学講話第2集 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡 正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1986/12/02
  • メディア: 単行本


宇治川 (4) (Small).JPG 宇治川

道徳と法律とは、社会の秩序を保つためにどちらも欠くことのできないものであるが、同じ内容の責任にしても、強制的にこれを守らせるのが法律であるのに対して、道徳上の責任となると、自分でそれを自覚し、自らすすんでそれを実行してゆくところにねうちがある。
しかも、法律上の責任も、国家から強制されるまでもなく、国民がすすんで行うようになることが必要であり、道徳上の責任も、どうしてもそれを守らない者があれば、法律的な強制に訴えるほかはなくなる。
だから、法律も道徳によって基礎づけられなければじゅうぶんに行なわれないし、道徳も法律が伴わないと力が弱い。
 たとえば、電車の運転手は、いつも信号に注意し、責任を持って運転に従事しなければならない。友だちとの話に気を取られて事故を起こしたり、不注意で人をひいたりすると、法律によって罰せられる。
しかし、多くの運転手は、法律上の処罰を恐れてではなく、たくさんの人命をあずから責任の重大さを感じて、自らすすんで注意に注意を重ね、いやしくもあやまちが起らないように気をつけて電車を運転しているだろう。それらの運転手は、法律上の責任を道徳的に守っているのである。
また、たとえば、人から借りたものを返すのは、道徳上の義務である。友だちから本を借りたならば、忘れずに返そうと思うであろう。困ったときに金を用だててもらったならば、さいそくされないでもつごうのつき次第に返済するだろう。
けれども、中には、言を左右にして借財を踏み倒す者もある。そういう場合には、法律によって弁済を強制する必要が起る。すなわち、道徳上の義務を法律的に強く行わしめることが必要になってくる。
 このように、道徳と法律とは、車の両輪のように密接に結びついて、秩序正しい人間の共同生活を維持しているのである。しかし、日常の社会生活では、法律に訴えるまでもなく、道徳の力によって正しい秩序が保たれているに越したことはない。
 ところで、日本では、昔から人間の間の「縦の道徳」がひじょうに重んぜられてきた。下は上を敬い。上は下をいつくしむ、というようなことが、縦の道徳である。
特に、君に対する忠と、親に対する孝とが、国民道徳の根本であるとされてきた。
これに対して国民相互の対等の関係を規律する「横の道徳」は、その割にいっこう発達していなかった。「旅の恥はかき捨て」などと言って、だれも知っている人のいない所へ行けば、不道徳な行いをしても平気だというような態度があった。「免れて恥なし」と言って、法律で罰せられられる心配がなければ、どんな悪いことでもやってのけると言った連中もあった。
そのために、日本人は、ややもすれば、見ず知らず人にぶあいそで、非社交的で、公衆道徳を守らないという不評判をとるきらいがあった。
 このように、縦の道徳だけが重んぜられて横の道徳が軽んぜられたというのは、日本の社会にまだ封建的な要素が残存していることの一つの証拠である。

民主主義
文部省 (著)
KADOKAWA (2018/10/24)
P184


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