倭国から日本国へ [日本(人)]
それでは、日本という国名が決まったのはいつなのかといいますと、現在の大方の学者の認めるところでは、浄御原令(きよみはらりょう)という法令が施行された六八九年とされています。
浄御原令は天武天皇が編纂を開始して、死後その皇后の持統が施行した、はっきりと存在が確認されている法令です。その前に近江令があったという説もありますが、これは整備された形ではできていなかったという説が有力です。
対外的には、大宝律令が制定された七〇一年の翌年、中国大陸に到着した遣唐使の粟田真人が当時の周の皇帝・則天武后(中国大陸の国家の歴史上。唯一の女帝で、国号を唐から周にかえています)に対して、「日本」の使いであると述べたのが最初といわれており、これは、ほとんどすべての学者が認めています。
それまでは「倭王」の使いであるといっていたのが、七〇二年に変わったのです。つまり国名を「倭」から「日本」に変えたのですが、そのことから、「日本」という国号が公式に決まったのはのれ以前ということになり、六八九年の浄御原令施行の時が最も可能性が高いと考えられています。
~中略~
いずれにしてもはっきり言えることは、この時以前、つまり倭から日本に国名を変えた時より前には、日本国という国は地球上に存在しなかったということです。
存在していたのは倭国であり、それは倭人という集団を中心とした国でした。倭王という称号で中国大陸に使者を送るようになったのは、三世紀の卑弥呼の頃からだといって間違いないと思います。
それ以降は、厩戸皇子、のちに「聖徳太子」といわれた人の時に送った遣隋使も倭国王の使いと言っており、決して日本国の使いとは名乗っていません。
ですから、こう言うと驚かれますが、「聖徳太子」は日本人ではなかったのです。自分で倭人と言っていたのですし、倭人イコール日本人では決してないのですから、実際、関東人はおそらく倭人ではないでしょうし、東北人や南九州人は倭人ではないのです。
歴史を考えるヒント
網野 善彦(著)
新潮社 (2001/01)
P16
「日本書紀」では、
「日本」
という国名を使っているが、(住人注;白村江へ向かう)兵士たちに国家への意識があったかどうか。氏族という小世界の長老の命ずるがまま軍船にのり、いつのまにか涯(はて)もない大海に泛(うか)んで島っていたというのがおおかたの実感であったろうし、ときには日本という国名さえも知らない若者もいたにちがいない。
しかしながら陸地を離れて洋上に出たとき、
「われわれの住んでいる陸地は、日本とよばれているらしい」
ということに気づいたにちがいなく、同時にそれまで小さな氏族の氏人にすぎなかった自分が、日本人という抽象的グループに属する人間であることも気づかされた。敵は、
「唐」
である。唐を意識するとき、当然ながらかれは安曇のなにがしや大伴のなにがしではなく、日本籍のなにがしであるということを意識すまいとしても意識するようになる。
日本人が個々の意識のなかで誕生するのは、このときが最初であったにちがいない。
同時に、日本の統一的なぬしはたれかということを当然意識するようになる。それは天皇(すめらみこと)である、と兵士たちは上から教えられたとおり、痛烈におもったにちがいない。
日本の下層者の意識のなかに天皇が誕生するのも、このときからであったであろう。
街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P243
私はいつも以下の想像が頭について離れないのだが、まだ国家などがなかったか、もしくはその影響力がきわめて薄かった古代では、生産手段によって民族がわかれていたとおもえる。
漁業技術をもった民族は、農業民族とは別個に社会を組み、ひろく東アジアの浦々に住んで、ながい歳月にわたって緩慢に流動していたにちがいない。
国家などは、あとでできた。一般に十九世紀以後の重い国家の出現以後われわれの錯覚として、国家という存在があまりに重すぎるために、はじめに国家があって住民がそこからうまれ出てきたとついうかつに思いがちなところがある。
街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P100
街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか (朝日文庫)
- 作者: 司馬 遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2008/09/05
- メディア: 文庫
コメント 0