SSブログ

支配者目線 [ものの見方、考え方]

 畿内(山城、大和、摂津、河内、和泉、現在の京都、奈良、大坂)というのは当時の日本国の支配層の出身地であり、そこだけが特別な行政区になっていました。
つまり、畿内こそ、ヤマトの国家の中心地であり、ほかは「外国(げこく)」といって待遇がまるで違っていたのです。
現在使われている近畿という地域名も、その「畿内」の幾をとっていることは言うまでもありません。そして、当時の国家の基盤となったのは畿内から西の地域であり、東の方「東国」は異質な人びとの住む地域と捉えられていました。

歴史を考えるヒント
網野 善彦(著)
新潮社 (2001/01)
P31

DSC_0668 (Small).JPG石龕時

P38
 いずれにせよ、坂東や奥羽といった地域名は、日本国の中心である畿内や京都に視点を置いた呼称でした。
それが、十二世紀末の鎌倉幕府の誕生によって大きく変わっていきます。
鎌倉幕府はやがて奥州藤原氏を滅ぼし、現在の中部・関東・東北一円を直接の統治権が及ぶ範囲にしますが、その範囲が「東国」と呼ばれるようになります。
 そして、やがて幕府が自らのことを「関東」と呼ぶようになるのです。決して畿内からの視点によるのでなく、非常に誇り高く、そう呼ぶようになります。
そのあたりから、日本全国の地域呼称にも変化が見られ、具体的には関西、中国、四国、九州といった呼称が使われるようになるのです。


タグ:網野 善彦
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント