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外国語の出来ない外交官 [日本(人)]


日本人の少数のトップの外国語能力は岡倉天心、新渡戸稲造、内村鑑三、徳富蘇峰、森鴎外など一八六二年前後に生まれた世代がずば抜けて高かった。
岡倉のごときはその主著をことごとく英語で書いています。ところが日本の教育制度が整備されるに従って英語の力は次第に落ちました。
それは明治の初年の日本では地理・歴史・数学・動植物その他いかなる学科もみな外国語の教科書で学んだからで、その世代は完全な外国語漬けで育ったのです。
「単に英語を何時間教はると云ふよりも、英語で総ての学問を習ふと云った方が事実に近い位であつた」と夏目漱石は「語学養成法」で回顧しています。


日本人に生まれて、まあよかった
平川 祐弘 (著)
新潮社 (2014/5/16)
P186



海龍王寺DSC_1021 (Small) (1).JPG海龍王寺 

P189
ところが大正年代に入り、戦艦長門・陸奥以下の主力艦を日本が自前で造るようになる。それは一面における進歩でしたが、日本軍人の視野はにわかに狭くなった。
軍艦も日本製なら、日本歯間が使う英語も日本製の時代に入ります。
大正以後、日本人は中国人ほど外国語を上手に話さない、といわれるようになりました。一九四一年、ワシントンで日米交渉に当たった海軍出身の野村吉三郎大使の英語が本人が自負したほど上手でなく、話がよく伝わらなかった、ということがアメリカ側から戦後明らかにされています。

P190
当時の中国側で英語が駆使できた人の数は日本側の三分の一だったといわれますが、中国側は米国大学出身者の若手を登用して弁論を振わせた。
それに対して教育制度の固まってしまった日本側の帝大出身の外交団は、明治の先輩たちと違ってメイド・イン・ジャパンの英語だから、通じないとは言わないがぱっとしない。
国際世論形成の場でしなしば敗退しました。国際連盟理事会で対日批判の矢面に立たされたのは実務家の芳澤謙吉(一八七四-一九六五)で、東大英文科の出でした。芳澤は犬養毅の娘婿で犬養内閣の外相、満州の独立に反対した人です。

P232
 英語が達者な人には、一見国際人で格好いいが、その正体は日本国内向けのインターナショナリストというのが多い。その証拠に国内向けに国際主義を説く書物は出していても、外国語で著書を出して外国に向けて自己主張している日本人の数はきわめて少ない。
寥々(りょうりょう)たるものです。そんな二級米英人とでもいうべき日本人が英語文化の土俵にのってしまえば相手の思うつぼ、相手と一緒に日本の悪口をいうのが落ちでしょう。




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