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補陀落渡海 [雑学]


日本宗教史の謎とされる補陀落渡海について知ったのは益田勝実「フダラク渡りの人々」によってである(益田勝実「フダラク渡りの人々」「火山列島の思想」筑摩書房、一九六八年)。
補陀落とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方のかなたにある観音菩薩の浄土を指しているのだが、その場所については諸説あって定かではない。いずれにせよ、僧侶らを生きたまま船内に閉じ込めて外から釘で打ちつけ、わずかな食料とともに観音の浄土へと旅立たせる風習があると知って、恐怖と好奇心のまじったなんとも奇妙な気持ちにさせられたものだった。
~中略~
 補陀落渡海は、熊野の那智勝浦でのみ行われたのではなく、高知の室戸岬や足摺岬、九州の有明海などでも行われていたことが知られているが、なかでも熊野の海岸は最大の拠点であった。
一一〇九年(天仁二年)熊野を訪れた藤原宗忠は、那智の海岸が「補陀落浜」と呼ばれていたことを「中右記」に書いているし、園城寺(おんじょうじ)の相で熊野三山検校であった覚宗は、堀河天皇の頃に那智の一僧が小舟に千手観音をつくりたてて補陀落渡海を行ったのを己の目で見たと「台記(たいき)」に記されている。
また、「平家物語」の平維盛(これもり)の入水往生も那智の補陀落信仰を抜きにしては考えられないだろう(根井浄「補陀落渡海」「熊野―異界への旅」(「別冊太陽」)、平凡社、二〇〇二年、八六頁))。
 もちろん進んで人びとのために船に乗り込んだ僧もいたであろうが、そうではなく仕方なしに乗り込まされた僧もいたにちがいない。
十六世紀末のこと、金光坊は釘づけされた扉を必死で壊して脱出するのに成功したが、翌日には発見されて、再び僧たちの手で死出の旅へと送りだされる。井上靖「補陀落渡海記」のストーリーである。
この元史料は「熊野巡覧記」で、そこにはただ、「この僧はなはだ死をいとい命を惜しんだのだが、役人は問答無用で彼を再び海へと追い落としたのであった」と書かれている。
「熊野年代記」(古写)によると、補陀落山寺で補陀落渡海を行った住持は、八六八年(貞観十年)から二十人が記録されているとのことだ(根井浄「補陀落渡海」「熊野―異界への旅」(「別冊太陽」)、平凡社、二〇〇二年、八六頁))が、その他の寺を含めるとかなりの数にのぼったにちがいない。
~中略~
 補陀落渡海は海のかなたに観音浄土をイメージしてはじめて成立したわけだが、これも熊野がつねに海とのつながりのなかで存在しているということを明らかにしているのではないか。この補陀落渡海も古くからの「常世」信仰の一つのヴァリエーションだったにちがいない。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P118


DSC_6564 (Small).JPG補陀落山寺










タグ:植島 啓司
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