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前田正之 [雑学]

 この大山塊は地肌を見るかぎり瓦を積みあげたような粘板岩から成っていて、風化がしやすいらしい。
その上にやわらかい土が載っているために連続した豪雨には弱いように見えるが、それにしても明治二十二年の八月十八日から三日間、滝のように降った豪雨は異例で山々が土崩して辷(すべ)り落ち、各所で渓流を埋め、流れをせきとめ、にわかにできた湖が大塔(おおとう)村、天川村をふくめて五十いくつにもなったというぐあいで、このため水没・流出・倒壊した人家は数知れず、死者は百六十八人、罹災者は二千六百人にのぼった。
「旧形ニ復スルハ蓋(けだ)し三十年ノ後ニアルベシ」
 と、この惨状を視た奈良県の書記官が知事に報告した文書の中にあるが、一部では一郷の再起はもはや望みがないとさえいわれた。
 一郷が合議のすえ、二千六百人が村をすてて北海道の荒蕪(こうぶ)の地に新十津川村(現・新十津川町)をつくるべく移住するのはこの直後である。
 まことに山郷の歴史はすさまじい。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)

P118



DSC_6373 (Small).JPG十津川

P144
明治二十二年八月十八日、九日の大豪雨による水害は、一夜で地形まで変えるほどにひどかった。流失、沈没の家屋は数知れず、しかも天嶮(てんけん)の地でおこったために下界までこの変事の報がなかなか届かなかった。
~中略~
 このとき東京に、前田正之という十津川人がいた。幕末以来、十津川郷の一代表として活躍してきた初老の人物で、字風屋(あざかぜや)の出身であった。正之は村では、
「清三」
 とよばれていた。清三では押し出しがきかないと思ったのか、幕末、一郷を代表して京へ出てゆくときいかにも身分ありげな「雅楽(うた)」という通称に改めた。維新後、正之と改称した。
 前田雅楽は、幕末、十津川郷が天誅組に取り込まれて政治的に孤立したとき、京から潜行して村に入り、一郷を説きまわって天誅組と縁を切らせ、村を政治的滅亡から救った人たちの一人である。
戊辰戦争では十津川隊の幹部になって東日本に転戦したが明治後は他の十津川郷の志士たちと同様、栄達はしなかった。十津川郷のひとはこの現象について「学問がなかったからです」とよくいうが、つねに自己の膨張を望む低地人とちがい、山民というのは本来、欲望がすくないということもあるであろう。前田は皇宮警察の警部などをつとめていたが、四十代でやめ、そのまま東京で隠居していた。
 ―十津川郷の過半は再起不能とみていい。
 という報が前田のもとに入ったのは、災害が発生した翌月のはじめである。
 前田はかつての他の十津川志士と同様、学問はなかったが、一種の政治的才能をもっていた。
そのことは故郷の存亡のことになると発光したようで、このときも、被災者を北海道に移住させて新十津川村をつくってはどうだろうというふうに発想が飛躍した。

P149
 前田正之がこの永山(住人注;永山武四郎、北海道庁長官)を訪ねて十津川の一件をたのんだのだが、すぐさまその了承を得たのは、永山が戊辰戦争のときに前田を知っていたということもあり、また幕末における十津川郷の活動について理解もあったからであろう。


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