孟子 [哲学]
P82
孟子は世界を転変するものととらえた。勤勉がかならず繁栄につながるとはかぎらないし、悪行がかならず罰せられるともかぎらない。どんなものにもなんの保証もない。世界には、当てにできるような包括的で安定した条理などない。それどころか、世界は切れぎれでどこまでも無秩序で、たえまない修繕が必要だと孟子は考えた。
安定したものなにもないと認識してはじめて、決断をくだすことができ、もっとも広がりのある人生を送ることができる。
なんとも不安になる話だし、孟子でさえ受け入れるのに苦労したらしい。
P89
孟子は、状況の複雑さを十分に見抜く力をつちかうただ一つの方法は、どうすれば自分の行動が建設的な道筋につながるか読み解く能力をつちかうことだと考えた。そして、だれもがそうできる素質、すなわち善の素質を備えて生まれてくると考えた。
~中略~なぜ善の素質をはぐくむためにもっと努力をしないのだろう。
すべての人が天性の善の素質を備えて生まれてくると信じていた孟子にとっては、これはよけいに理解しがたいことだった。孟子はつぎのように言う。
人間の本性が善であるというのは、ちょうど水が低いほうへ流れていこうとするようなものだ。低いほうへ流れない水がないのと同じように、本性が善でない人間はいない【11】
けれども、この善は素質として存在するにすぎない。人間の本性は潜在的に善だが、遭遇するものによって失われることも、ゆがんでしまうことも、変質することもある。孟子も言っている。
たしかに、流れをせき止めて逆流させれば、水を頂上に押しとどめて低いほうへ流さないでおくことができるだろう。しかし、それは本当に水の本性だろうか。そうなるように外から勢いを加えたからにすぎない。人間がときによからぬことをしてしまうのも、それと同じ理由からだ。【12】
※11人の性の善なるは、なお水の下(ひく)きに就(つ)くがごとし。人善ならざることあるなく、水下(くだ)らざることあるなし。
※12今それ水は・・・・・・激(げき)してこれを行(や)れば、山にあらしむべし。これあに水の性ならんや。その勢いすなわちしかるなり。人の不善をなさしむべきは、その性もまたなおかくのごとければなり。
孟子は、善良になる方法を理解するために、善の感覚を腹の底で理解するよう人々に求めた。善良であるとは身体感覚でどんな感じがするのか。それを体感するために日々なにをすればいいのか。
孟子はこの問いに答えるために、初期段階の善を小さな芽のようなものだと考えるよう説いた。どの芽ももっと大きなものに育つ素質をもっている。けれども、小さな芽はゆきとどいた環境でしかるべく栽培し、その潜在的な成長の力を現実のものとしなければならない。
同じように、わたしたちはそれぞれ、自分の内に初期段階の善をもっている。だから孟子は、めいめいが君子のようになる素質、つまり、だれもが反映できる環境をつくりだせるようになる素質を生まれつき等しくもって人生をスタートすると結論づけた。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義
マイケル・ピュエット (著), クリスティーン・グロス=ロー (著), 熊谷淳子 (翻訳)
早川書房 (2016/4/22)
道 [哲学]
物有り混成し、天地に先だって生ず。
寂兮(せっけい)たり寥兮(りょうけい)たり、独り立って改わらず、周行して而も殆(つか)れず。
以て天下の母爲(た)る可し。吾其の名を知らず。
之を字(あざな)して道と曰う。強いて之が名を爲(な)して大と曰う。
大を逝(せい)と曰い、逝を遠と曰い、遠を反(はん)と曰う。
故に道は大なり、天は大なり、地は大なり、王も亦(ま)た大なり。
域中に四つの大有り、而(しこ)うして王は其の一に居る。
人は地に法(のつと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
老子
小川 環樹 (翻訳)
中央公論社; 改版 (1997/03)
P63
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肉体化された思想 [哲学]
肉体化された思想というものは今日では益々稀になった。現代人は、思想でなく思想の罐詰(かんづめ)を食って生きているようにみうけられる。国産の配給品もあれば、外国製のもある。急いで罐詰を食いちらしている情景は、戦前も戦後も変わらない。自分で畑を耕し、種子をまき、あらゆる風雨に堪えて、やっと収穫したというような思想に出会うことは稀だ。
たとい貧しく拙劣でも、自ら額に汗してえた思想を私はほしい。
そういう勤労の観念がいまどこにあるだろうか。勤労者の味方をもって自任する政党の思想が、最も罐詰臭いのは不思議なことである。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P113
目次 哲学 [哲学]
哲学
- 真理は単純だが、事実は複雑
- 考え続けること
- この世を動かす力は希望である
- 「人」は「機械」ではない
- 人間はこわれものだ
- ヒトという生物
- 人間は社会人である以前に自然人であったはず
- 人格
- ヒトは性善か性悪か
- 健全な精神を体験する権利
- ありのままの~♪姿がた見せていいの?
- ヒトは快楽を求めて生きている
- 生きることは義務だ
- 意味への意志
- 自己決定理論
- 自分をだましてはならない
- 楽天家は自分をだますのが上手
- 想像するちから
- 花は鳥を知るが如く、鳥は花を待つに似たり
- プラス思考の勧め
- 幻覚妄想は心から発信されている
- 自由ということ
- 発展しようとする精神の自由
- 端境期の知性
- 肉体化された思想
- 文明とは
- 正義
- 孟子
- 墨子
- 荀子
- 道
- 気
- カリスマ性
- 神のエネルギー
- 無為自然
- 幸福
- 愛するとは
- 無明
- 欲望
- 丸裸の実力
- 固執しない
- 今の自分を棄(す)てる覚悟
- 名利に迷うな
- みんな違う世界で生きている
- 各人の時間
- ほどけていく「私」
- その意識を捨ててしまえ
- 認識と現実のずれに苦しむ
- おかれた境遇を楽しもう
- 天地自然の理
- 有の以て利と為すは、無の以て用を為せばなり
- 真実はつかまえどころのない
- だめなものはだめ、できないことはできない
- 習慣は第二の天性である
- 木にまなべ
- 天職は出会うものではない
- 道具は得心がいくまで研け
- シンプルなものが強い
- 「いい加減」が大切
- 自己嫌悪とは
- 私とは
- 「つながりの自己観」と「アトム的自己観」の間
- 悩みの大きさが迫力を生む
- よく驚くことのできる人物
- 我というは煩悩なり
- そもそも人間は矛盾している
- 追憶
- ノスタルジー
- 脳始
- 死の定義
- 死に直面した人に対して
- 生きているほうがいい
- 歩キ続ケテ果テニ熄ム
- 死について考えよう
- 「心」と「ことば」と「きずな」
- チンパンジーはリンゴのみにて生きるにあらず
- 規則は、環境も人心をも変える
- 宗教のリミッター
- 哲学の動機
- 道人を弘むるにあらざるなり
真理は単純だが、事実は複雑 [哲学]
科学上の理論は、しばしば美しいとされる。「真理は単純で、単純なものは美しい」。
よくそう言われる。ただし私はたえず反論する。真理は単純で美しいかもしれないけれど、事実は複雑ですよ、と。
遺言。
養老 孟司 (著)
新潮社 (2017/11/16)
P111
楽天家は自分をだますのが上手 [哲学]
「楽観主義は外部の現実とはほとんど関係なく、自分の内なる世界を管理する能力と大いに関係がある。
本当に大切なのは、現実でなく、”コントロールしているという認識”である」。
コロンビア大学精神医学教授、スーザン・ヴォーガン
カーラ・カンター「積極性の心理学:第二の自我の暗部の研究」、CBSの健康問題ウェブサイト
パウエル―リーダーシップの法則
オーレン ハラーリ (著), Oren Harari (原著), 前田 和男 (翻訳)
ベストセラーズ (2002/05)
P275
幸福 [哲学]
幸福というものはささやかなもので、そのささやかなものを愛する人が、本当の幸福をつかむ。
亀井勝一郎
大山 くまお (著)
名言力 人生を変えるためのすごい言葉
ソフトバンククリエイティブ (2009/6/16)
P155
幻覚妄想は心から発信されている [哲学]
幻聴は心の問題であり、だから聾唖者であっても幻聴に悩まされることはある。幸か不幸かわたしは幻聴を体験したことがないけれど、たとえば統合失調症においては、本人の一挙手一投足に対して幻聴が小馬鹿にしたトーンでいちいちコメントしたりすることがあるという。
~中略~
幻聴対策として、耳に綿を詰める人がいる。もちろん幻聴は内なる声なのだから耳栓などまったく意味をなさない。だが、耳を塞がずにはいられない気持ちは察しがつく。
なべて幻覚妄想は自分の心から発信されている事象を外在化させてしまうところに本質があるわけで、だから耳栓がトンチンカンなコーピングであると患者は決して思わない。
「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室
春日 武彦 (著)
医学書院 (2007/07))
P191
プラス思考の勧め [哲学]
渇愛 [哲学]
人間が抱える不満や物足りなさの「理由」について、ブッダはこう語っています。
苦しみが何ゆえに起こるのかを、理解するがよい。
苦しみをもたらしているものは、快(喜び)を求めてやまない”求める心”なのだ。
―初転法輪経 サンユッタ・ニカーヤ ブッダが発見した”求める心”tanhâ(タンハー)とは、いわば「反応しつづける心のエネルギー」のこと。人の心の底に、生きている間ずっと流れている意識のことです。
”求める心”は、発生後”七つの欲求”に枝分かれします。現代心理学の知識を借りると、7つの欲求とは、①生存欲(生きたい)、②睡眠欲(眠りたい)、③食欲(食べたい)、④性欲(交わりたい)、⑤怠惰欲(ラクをしたい)、⑥歓楽欲(音やビジュアルなど感覚の快楽を味わいたい)、そして、⑦承認欲(認められたい)です。
反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)
P26
ほどけていく「私」 [哲学]
終末期の痴呆老人をケアしていると、しばしば看取られている人が「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」世界にいる、という印象を受けます。終末への道行きを歩む人の「私」は、現実世界に住む人たちとは確かに違っています。
わたしたちが理解する「私」とは、名前、年齢、家族、職業などいわば属性や社会的関係、さらに自分の交友や過去の歴史がつながった「結節点」です。それらをつなげているのは、いうまでもなく記憶です。
しかし、それらのつながりによって結ばれた「私」は、この世とあの世が入りまじった幽明界では、解けほどけていくような印象を与えます。
京大大学院で臨床心理学を専攻していた久保田美法氏は、老人病棟や老人ホームでの観察から次のように述べています(註⑧)。
自分が生きてきた歴史やなじみ深い人びと、ときにはご自分の名前さえ忘れていかれる痴呆では、その言葉も、物語のような筋は失われ、断片となっていく。
それはちょうど、人が生を受け、名前を与えられ、言葉を覚え、「他ならぬ私」の人生をつくっていくのとは反対の方向にあると言えるだろう。ひとつのまとまりのあった形が解体され散らばっていく方向に、痴呆の方の言葉はある。
それは文字通り、ゆっくりと「土に還っていく」自然な過程の一つとも言えるのではないだろうか。
以上の過程において、「私」は、しばしばこの世の人とあの世の人との間を行ったり来たりして、双方につながりを持っているように見えます。
初めてそのような現象を観察したとき、わたしは、ちょっとショックを受けました。
八十代のその女性は、往診のわたしをいつも笑顔で迎えてくれました。娘さんが「この頃、母は祖母やもう亡くなった人たちと話しているんです」と言うので、「ご両親と会われるそうですね」とたずねました。すると彼女はわたしの左肩の後ろを指差し、「ええ、そこに来ています」とにっこりしました。
現時点で現世の筆者と会話する彼女の心的状態を正常と規定するならば、あの世の人と話す彼女は幻覚、幻視の状態であるということになります。しかし、その時の彼女は幽明の境がなくなったように、自在にこの世の人とあの世の人との間を往来する様子が印象的でした。
「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P128
死について考えよう [哲学]
関西学院大学(兵庫県西宮市)で悲嘆学を専門にする坂口幸弘准教授(35)は、「悲しみは消し去る必要はない」と話す。死別をきっかけに家族や友人とのきずなを再確認する人もいれば、人の痛みに共感してボランティアを始める人もいる(→解説33)。
「悲しみは成長をもたらし、新たな人生の旅立ちとも考えることができます」
大切な人をどう看取るのか――終末期医療とグリーフケア
信濃毎日新聞社文化部 (著)
岩波書店 (2010/3/31)
P166
人間の心の根底にあるのは「無力感」である [哲学]
すべてを思いどおりにできない、望みは叶うことのほうがむしろ珍しい、自分1人では生きていけない―そんな具合に、赤ん坊のときから我々は無力感を痛感しつづけて成長してきている。
すると、それに対して人はどのように考えたり振る舞ったりすることになるのか。そこに、人それぞれの生き方や考え方が析出してくる。
ある人は、無力感を克服するべく奮闘努力しがんばり抜き、しかし成功者となってもなお無力感を払拭できぬままうっ屈した気分で日々を過ごしているかもしれない。別な人は、無力感ゆえに努力も忍耐も放棄し、その場しのぎの無気力で怠惰な毎日を送っているかもしれない。~中略~
もともとは「無力感」という切ないものからスタートしているにもかかわらず、成長していくうちに、どのように無力感を手なずけ飼い慣らすかで全然傾向の違った人柄ができあがっていく。
そのような多様性と不思議さとを、我々は念頭に置いておくべきだろう。
はじめての精神科―援助者必携
春日 武彦 (著)
医学書院; 第2版 (2011/12)
P012
心身一元論と二元論 [哲学]
生物と無生物に特別な違いはなく、どちらも同一の物理化学法則に従うという、一元論である。この考え方を、伝統的に「機械論」と呼ぶ。~中略~
機械論という一元論に対して、生物が非生物の持っていない独自の法則を持っているという立場がある。これは物質界と生物界を明確に分けようとする二元論であり、「生気論」と呼ばれる。
斎藤 成也
生物学者と仏教学者 七つの対論
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)
ウェッジ (2009/11)
P22
習慣は第二の天性である。 [哲学]
そもそも人間は矛盾している [哲学]
河合 ~前略
ぼくがずるさと言っているのは、もう少し違う言い方をすると、人間の思想とか、政治的立場とか、そういうものを論理的整合性だけで守ろうとするのはもう終わりだ、というのがぼくの考え方なのです。
人間はすごく矛盾しているんだから、いかなる矛盾を自分が抱えているかということを基礎に据えてものを言っていく、それは外見的にみるとやっぱりずるいわけですね。
村上春樹、河合隼雄に会いにいく
河合 隼雄 (著), 村上 春樹 (著)
新潮社 (1998/12)
P74
ハラペーニョ
だめなものはだめ、できないことはできない [哲学]
「人」は「機械」ではない [哲学]
よく驚くことのできる人物 [哲学]
かくして帰りました北宮子は、それから元の貧乏生活も極めて幸福に思われ、終身自得して、成功とか失敗とかいうことなどは、てんで忘れてしまいました。東郭先生これを聞いて感心しました。
「北宮子は長い間寝ておったのだ。それがかの一言によってよく醒めた。よく驚く(眠りからさめること)ことのできる人物だ」とこう申しております。
西行の歌でありましたか、「世の中を夢とみるみるはかなくも、なお驚かぬわが心かな」
というのがあります。
驚けない! はっきりと目が醒めないという悶えは、国木田独歩もいたく悩んだように、凡夫の身には誰しも免れがたいものであります。
世の中に何がゆえに哲学や文学や宗教や、尊い精神の世界があるか。
人間が人間たることを失ってしまいやすい時に、はっきりと目を醒ます、よく驚くということが、人間の本質的な要求であるから、この人間の一番尊い要求が、次第にそういう信仰や学問、芸術等、尊い文化を生んだのであります。
我々も東郭先生の言葉ではありませんが、よく醒めることのできる、よく驚ける人物にならねばならんと思うのであります。
安岡正篤
運命を開く―人間学講話
プレジデント社 (1986/11)
P149
ヒトは快楽を求めて生きている [哲学]
人間がもし快楽よりも苦痛を好むとしたら、人類はとうの昔に滅亡していただろう
(人間の絆」四十五章、一九一五年)
モーム語録
行方 昭夫 (編集)
岩波書店 (2010/4/17)
P21
固執しない [哲学]
其の安きは持(たも)ち易く、其の未だ兆(きざ)さざるは謀(はか)り易し。
其の脆きは溶泮(と)けしめ易く、其の微なるは散じ易し。
之を未だ有らざるに為し、之を未だ乱れざるに治む。
合抱の木も、亳末より生じ、九層の台も、累土より起こり、千里の行も、足下(そっか)より始まる。
為す者は之を敗(やぶ)り、執する者は之を失う。是を以て聖人は、為すこと無し、故に敗るること無し。
執すること無し、故に失うこと無し。
民の事に従うは、常に幾(ほとん)ど成るに於て而して之を敗る。
終を慎むこと始の如くなれば、則ち敗るる事無し。
是を以て聖人は、欲せざることを欲す。得難きの貨を貴ばず。学ばざることを学ぶ。
衆人の過ぎたる所に復(かえ)し、以て万物の自然を輔(たす)けて、而も敢て為さず。
老子
小川 環樹 (翻訳)
中央公論社; 改版 (1997/03)
P143
有の以て利と為すは、無の以て用を為せばなり [哲学]
三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)(住人注;車輪の中心)を共にす。その無に当って、車の用有り。
埴(しょく)を埏(かた)めて以て器(うつわ)を為(つく)る。その無に当って、器の用有り。
戸牖(こゆう)(住人注;戸や窓)を鑿(うが)ちて以て室(むろ)を為る。その無に当って、室の用あり。
故に有の以て利と為すは、無の以て用を為せばなり。
老子
小川 環樹 (翻訳)
中央公論社; 改版 (1997/03)
P30
意味への意志 [哲学]
「意味への意志」
この言葉は、右にのべた二つの意志、すなわちフロイド的な「快楽への意志」とアドラー的な「力への意志」に対して、フランクルがそれらよりも人間にとってより本来的な意志であるとして提起したものである。
フランクルは言う、「人間は結局そしてもともと、意味への意志と言うか、自分の人生をできる限り意味で充たしたいとの憧憬によって魂―と言わぬまでも精神を―吹き込まれて、それに従って、生きがいのある生活内容を得ようと努め自分の人生からこの意味を闘い取っています。
われわれは、この意味への意志が充足されずにとどまる時に初めて、またその時に限って―人間はますます多量の衝動満足によってまさにこの内面的不充足を麻痺させ、自分を酔わせようと努めるのだと信じます」(「時代精神の病理学」(フランクル著作集3、みすず書房、一九六一年-九八)
この「意味への意志」は、さきの二つの意志が生理的欲求と社会的欲求であるのに対して、実存的欲求であるということができるであろう。
それでも人生にイエスと言う
V.E. フランクル (著), 山田 邦男 (翻訳), 松田 美佳 (翻訳)
春秋社 (1993/12/25)
P182
生きることは義務だ [哲学]
私は眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く―すると、ごらん、
義務はよろこびだった。
タゴール(Rabindranath Tagore(一八六一~一九四一)。インドの詩人・小説家・哲学者。宗教的な抒情詩をベンガル語で書いた。一九三一年ノーベル賞受賞。
そういうわけで、生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。たしかに人生にはまたよろこびもありますが、そのよろこびを得ようと努めることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずと湧くものなのです。帰結が出てくるように、おのずと湧くのです。
しあわせはけっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。
しあわせとは、タゴールの詩で義務といわれているものを果たした結果なのです。
~中略~
いずれにしましても、しあわせというものは思いがけず手に入るものにすぎず、けっして追い求められないものであるわけですから、しあわせを得ようとすれば、いつも失敗することになるのです。
それでも人生にイエスと言う
V.E. フランクル (著), 山田 邦男 (翻訳), 松田 美佳 (翻訳)
春秋社 (1993/12/25)
P24
追憶 [哲学]
我というは煩悩なり [哲学]
鎌倉仏教の開祖・一遍上人は、いってみれば”遅れてきた青年”である。ほかの宗派がほぼ影響力を固めたあとに、時宗を興した。
「我というは煩悩なり」と、その語録にいう。
すなわち、人間は己を頼み、自己本位の執着を離れえない。念仏をも自らの修行と思いこんでいる。
そのような我執が、人間の迷妄の根源である。こうした己を頼む心の一切を捨て去り、南無阿弥陀仏の名号を唱えるときに、はじめて名号の力が往生させてくれる。
つまり、彼の教義とは、他力念仏の極致を示すことにあった。
~中略~
この一遍が享年五十で、和田岬(神戸市)の観音堂(のちに真光寺)で没したのが、正応二年(1289)八月二十三日である。
この国のことば
半藤 一利 (著)
平凡社 (2002/04)
P95
欲望 [哲学]
欲望というのは人間を走らせる駆動力でもあります。それが枯れるというのは、ガス欠した車のような状態になることであり、そのことこそ「苦しい」と思う人も少なからずいるはずです。
欲望にまみれて突っ走っている人間には、怖いものはありません。突っ走れなくなったときに初めて、恐怖を感じ始めます。
マイ仏教
みうらじゅん (著)
新潮社 (2011/5/14)
P160
自己決定理論 [哲学]
デジとライアンは共同で、「自己決定理論(STD)」を構築した。
~中略~
STDはこれ(住人注;行動理論の多く)とは対照的に、普遍的な人間の願望を起点とする。人間には生来、(能力を発揮したいという)有能感、(自分でやりたいという)自律性、(人々と関連を持ちたいという)関係性という三つの心理的要求が備わっている。この要求が満たされているとく、わたしたちは動機づけられ、生産的になり、幸福に感じる。
~中略~
すなわち、人間は本来「自律性を発揮し、自己決定し、お互いにつながりたいという欲求」を備えている。その欲求が解き放たれたとき、人は多くを達成し、いっそう豊かな人生を送ることができる、というものだ。
モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか
ダニエル・ピンク (著), 大前 研一 (翻訳)
講談社 (2010/7/7)
P109
細部にこそ、物事の本質が現れる [哲学]
「浅き川も深く渡れ」ということばがある。
字義通りにとれば、慎重にふるまいなさい、という意味だろう。一見すると浅く見える川も、実際には思いのほか深いことがある。
だから、足を取られて流されないように慎重に歩きなさい、という意味である。
しかし、このことばは私には少し違ったニュアンスに聞こえる。一見すると何気なく見過ごすもののなかに、実際には深い意味がひそんでいることがある。
だから、浅いと見えるののも深く味わってみなさい、という意味に受け取れるのだ。
細部にこそ、物事の本質が現れる。
想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心
松沢 哲郎 (著)
岩波書店 (2011/2/26)
P3
「心」と「ことば」と「きずな」 [哲学]
比較認知科学というのは、人間とそれ以外の動物を比較して、人間の心の進化的な起源をさぐる学問のことである。
~中略~
比較認知科学という自分の研究の焦点になっているのは、「心」と「ことば」と「きずな」だと思う。
この三つが、人間という生き物を考えるうえでとても重要な側面だ。チンパンジーの研究を通して、そう気がつくようになった。
「心」と「ことば」と「きずな」が人間にとって大切だということは、すでに長いあいだ、われわれは知っていたのだと思う。
たとえば、「心に愛がなければ、どんなに美しいことばも、相手の胸に響かない」という表現がある。聖パウロのことばだそうだ。
「人と人との間」にある「人間」の本質をうまく言い得ている。
想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心
松沢 哲郎 (著)
岩波書店 (2011/2/26)
P2