感情は忘れない [哲学]
病棟の看護ステーションに入ると、忙しく働いている看護師や介護士たちに「お早うございます」とか「今日は」と挨拶します。患者一人一人に声をかけるのはいうまでもありません。
英語なら"How are you?"と相手の状態をたずねますが、「今日は」を英語にそのまま訳すと"Today is !"ということで、別に意味や情報はありません。
それでも「コンニチワ」は、一人であれ大勢であれ、そこにいる全員にわたしのある「善き意図」を伝えられる。大きいほがらかな声で挨拶し、返事が返ってくるとき、ある情動的コミュニケーションが成立したことを体感できるのです。
こちらの「善意」を伝える配慮は、医学関係の学会では格別重要です。医者というのは、わたくしを含めて小児性格の者が少なからず居り、また発表者が研究成果に十全の自信を抱くことはまずありません。直截(ちょくせつ)な質問はしばしば悪意あるあげつらい、発表に対する攻撃と感じさせるので、質問するときは、まずは発表内容をほめます。
どんなにその内容に同意できずとも、ほめる。「先生のご発表ありがとうございました。非常に感銘を受けました」など、まるであいまいなものでかまいません。これはヒト音声的コミュニケーションと理解すべきです。
~中略~
いかに質問者の意見が正しく、発表者の方に誤りがあってもそうです。質問自体はしばらくすると忘れ去られても、「悪意ある」質問をしたという印象だけは、質問を受けた人に一生憶えられている。
痴呆状態にある人が、そばの人に厳しく訂正されるときに起こす情動反応といささかも変わりません。
家庭では、音声コミュニケーションは空気や水のように大切です。
夫が毎日くりだす会社のグチを、毎日すべて聞いてあげて「理解」し慰められる伴侶は、まずいないでしょう。
たまならともかく、終始同じような愚痴を聞くのに疲れてしまい、「意気地がないのね。ウジウジしているからいけないのよ」と反発した場合の結末は、いうまでもありません。
ここで寛容なのは、断じて「理解する」ことではありません。むしろ積極的に理解はせず(右から左へ聞き流す、という形容もあります)、やさしい声音(音声)で、うなずいてあげる。これができないヒトは、ゲラダヒヒにとくと学ぶ必要があるでしょう。もちろん理解し、かつ傾聴できる人もいて、そのような方は、「ひたすら共感をもって聞くに徹する」を流儀とする心理療法家になる素質があります。
「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P61
天道は是か非か [哲学]
世間には、冷酷無情にして聊(いささ)かも誠意なく、その行動の常に奇矯不真面目なものが、かえって社会の信用を受け、成功の栄冠を戴きおるに、これに反して至極真面目にして誠意篤く、いわゆる忠恕の道に契(かな)ったものが、かえって世に疎んぜられ落伍者となる場合がいくらもある。
天道は果たして是か非か、この矛盾を研究するは、誠に興味ある問題である。
~中略~
志が如何に善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることができぬ訳である。
これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、人は成功する。
行為の本である志が曲がっていても、所作が正しいという理屈は、厳格に言えば有ろう筈はないが、聖人も欺くに道をもってすれば与(くみ)しやすきがごとく、実社会においても人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを措くがゆえに、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい。
~中略~
したがって、巧言令色が世に時めき、換言は耳に逆い、ともすれば忠恕のある真面目な人が貶黜(へんちゅつ)せられて天道是か非かの嘆声を洩らすに引きかえ、わるがしこい人前の上手な人が比較的成功し信用さるる場合のある所以である。
「常識と習慣」
渋沢栄一 (著)
論語と算盤
角川学芸出版 (2008/10/25)
P105
福岡市博多区東公園 十日恵比寿神社
常なるものなどない [哲学]
P68
四八 絶えずつぎのことを心に思うこと、すなわちいかに多くの医者が何回となく眉をひそめて病人たちを診察し、そのあげく自分自身も死んでしまったことか。
またいかに多くの占星術者が他人の死をなにか大変なことのように予言し、いかに多くの哲学者たちが死や不死について際限もなく議論をかわし、いかに多くの将軍が多くの人間を殺し、いかに多くの暴君がまるで不死身であるかのように恐るべき傲慢をもって生と死の権力をふるい、そのあげく死んでしまったことか。
~中略~
要するに人間に関することはすべていかにかりそめでありつまらぬものであるかを絶えず注目することだ。
昨日は少しばかりの粘液(50)、明日はミイラか灰。だからこのほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。
あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃(ほ)めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。
P85
二三 存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消して行くかについてしばしば瞑想するがよい。
なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因(アイティア)も千変万化し、常なるものはほとんどない。
我々のすぐそばには過去の無限と未来の深淵とが口をあけており、その中にすべてのものが消え去って行く(22)。
マルクス・アウレーリウス 自省録
マルクス・アウレーリウス (著), 神谷 美恵子 (翻訳)
岩波書店 (1991/12/5)
歩キ続ケテ果テニ熄ム [哲学]
白州正子さんは死を予感して、ご自分で電話をして救急車を呼んだ。待っている間に、お好きなものを食べた。入院して間もなく昏睡状態となり、旬日を経ず他界した。
その一週間ほど前、一献差し上げたいからといささか急なお招きが懸かった。いぶかしながらも、鶴川のお宅に伺ったところ、白州さんは2階で床に着いていた。
そのとき白州さんが、月の光のようにキラキラとした顔をしておられたのを、今でも思い出す。
その夜、白州さんは酒宴には加わらなかった。私たちはスッポンの饗応にしたたかに酔って、夜遅く帰宅した。
後で、それは白州さんのお別れの儀式だったと知った。
~中略~
寡黙なる巨人
多田 富雄 (著), 養老 孟司 (著)
集英社 (2010/7/16)
P137
崇福山 安楽寺 八角三重塔 (国宝)
時代が哲学を創る [哲学]
おそれやおののきや不安が人間の心にわだかまることをヘーゲルとて否定はしない。しかし、それらは、人間の意識の全体から見れば、感情という低い次元に位置づけられるもので、個としての人間も、社会的存在としての人間も、そうした感情を克服することによって精神的な成長を遂げていく。キルケゴールは意識のそうした位階制に異を唱え、ヘーゲルが低次元とする感情のうちにこそ崇高な宗教性が宿ると考え、そこに人間心理の真実をうかがおうとする。
ちなみに、「不安」は、二十世紀に至って、ハイデガーやサルトルが人間存在の根底をなす心事としてふたたび大きくとりあげる。
この二人にとっては、社会のうちに安定した生活の場を見いだすヘーゲルの個人よりも、つねに不安と背中合わせに生きているキルケゴールの孤独な個人のほうが、親近に感じられたのである。
新しいヘーゲル
長谷川 宏(著)
講談社 (1997/5/20)
P175
ノスタルジー [哲学]
映画「ニュー・シネマ・パラダイス」。シチリアを旅立つ青年に、老映画技師は言う。もうここには戻ってくるな。ノスタルジーに惑わされてはいけないと。
そう。ノスタルジーは幻想なのだ。ノスタルジーに浸るとき人は自己愛に浸っている。それに足をとられるな。たぶん技師はそう言いたかったのだ。
~中略~
なつかしさとは、いとおしいペットのような自己の記憶なのだ。時に人はそれに足をとられ、しかし時にそれは解毒剤のように何かを溶かし慰撫してくれるものでもある。
福岡 伸一 (著)
ルリボシカミキリの青
文藝春秋 (2010/4/23)
P199
無明 [哲学]
自由ということ [哲学]
ここで自由ということが、近代の政治史の上でいったい何を意味したかを、簡単に振り返って考えてみることにしよう。
まずアメリカ合衆国の独立宣言では、あらゆる人びとが幸福を追求する権利を要求した。
それが、フランス革命では、これを自由というたった一語に結晶させてしまった。
そして、それにつけくわえられた平等というのは、要するに一種の管理社会の概念であり、博愛というのは自己抑制(セルフ・コントロール)のことにほかならない。
なかでも、この最後のものは、デモクラシーが有効に機能するための必須の条件だが、およそこれぐらいむずかしいものはなかろう。なぜならば、これは平凡な市民に対して、ぎりぎりの能力の放出を要求するからだ。
が、ともかくも、こうしてデモクラシーの哲学の最初の一巡が終わる。
そして一九世紀の中頃から始まるのが、第二の段階である。これは民族という地域的なグループが集団として国家としての自由を追求しようとする働きであり、しかも同時にその集団の内部における社会的な平等を、それぞれに独自な方法を通じて実現しようとするものにほかならない。
地政学入門―外交戦略の政治学
曽村 保信 (著)
中央公論社 (1984/01)
P71
ヒトという生物 [哲学]
プロメテウス(住人注;火を人間にやった)を罰したゼウスは、こんどは人間を苦しめる方法をあれこれ考えた。すると、いいことを思いついた。美しい女を作って、人間達におくることである。
そこでヘパイトスに女を作らせて、パンドラという名をつけ、これに息をふきこんだ。パンドラという名は<あらゆるものに恵まれた者>という意味だと言う。
~中略~
すこし頭のたりないエピメテウスは、パンドラにせがまれて、とうとうふたをすこしあけた。とたんに病気、憎しみ、ぬすみなどのあらゆる悪が、箱(住人注;人間を愛したプロメテウスがあらゆる悪を閉じ込めておいた)からとびだして人間の世界にとびちった。
~中略~
考え深いプロメテウスは、ゼウスが人間をひどく苦しめた時のことも考えて、希望をもこの箱の中にちゃんと入れておいたのだった。こうして希望が最後まで人間のそばに残り、彼に勇気と力とをあたえることになったのだという。
山室 静 (著)
ギリシャ神話―付・北欧神話
社会思想社; 再版版 (1962/07)
P36
ギリシャ神話―付・北欧神話 (1963年) (現代教養文庫)
- 作者: 山室 静
- 出版社/メーカー: 社会思想社
- 発売日: 2021/01/25
- メディア: 文庫
この世を動かす力は希望である [哲学]
この世を動かす力は希望である。やがて成長して新しい種子が得られるという希望がなければ、農夫は畠に種子をまかない。
子供が生まれるという希望がなければ、若者は結婚できない。利益が得られるという希望がなければ、商人は商売にとりかからない。
マルティン・ルター
カーネギー名言集 ハンディーカーネギー・ベスト (3)
ドロシー カーネギー (著)
創元社 (1986/11)
P24
「つながりの自己観」と「アトム的自己観」の間 [哲学]
第一章で、認知能力の低下を恐れる理由に、日米の文化差があることを述べました。
日本の回答者は圧倒的に「他者」に迷惑をかけるから、アメリカ人は自己の自立性が失われるから恐怖する。
自己の存在を考えるとき、常に他者(特に身内の者)の存在を意識しているか、あるいは一つの独立した「宇宙」として自己を自覚しているのか―ヘーゼル・マーカスとシノブ・キタヤマは前者のような文化的自己感を「相互協調的自己観」、後者を「相互独立的自己観」と名づけました(註⑮)。
これらの名称は硬すぎるので、わたしはそれぞれ「つながりの自己観」、「アトム的自己観」と呼びかえています。
「アトム的自己」では自己は、他者から切り離された独立した「宇宙」(「世界」といってもよいでしょう)であり、利己的な判断・意思決定・行動主体です。
他者もそのような存在として理解され、何かを成し遂げようとするとき考慮に必要な関係項は、自己の才能、性格、野心、欲求などであり、他者はその目的を達成するための二次的存在に過ぎません。
この種の自己観の持ち主にとって、他者が敵か味方に分かれやすいのも自然でしょう。競争が激烈な社会では敵味方の感覚はさらに強まりますから、認知能力の衰えは自己という宇宙主体の崩壊と感じられるのも当然です。
こうした「アトム的自己」は、北米やヨーロッパの文化圏に支配的に見出されます。
「つながりの自己」にとって、他者は切っても切れない、つながった存在です。(このときの他者は同じ集団、世間の一員として認識される者であって、明らかに異質な者は入りません)。
何かを行なおうとするとき、無意識的に他者の意向が関係項として入ってきますから、他者に迷惑をかける存在になるのを恐れます。
「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P183
天職は出会うものではない [哲学]
俺の口から「天職」だとか「ゴルフの神様」だとか、気障(きざ)な台詞が出るようになったのも、それなりの「道」があるからだよ。
ゴルフなんて、最初から天職だったわけじゃない。
青木功
40歳の教科書NEXT──自分の人生を見つめなおす ドラゴン桜公式副読本『16歳の教科書』番外編
モーニング編集部 (編集), 朝日新聞社 (編集)
講談社 (2011/4/22)
P20
40歳の教科書NEXT──自分の人生を見つめなおす ドラゴン桜公式副読本『16歳の教科書』番外編
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/04/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
哲学の動機 [哲学]
佐伯啓思
西田さん(住人注;西田幾多郎)の「哲学の動機っていうのは、人生の悲しみにある」という非常に有名な言葉があって。
どうして自分は哲学をやったかというと、別に哲学が好きだとか、ものを知りたいとか、本を読みたかったとか、そんなことじゃなくて、自分の哲学の動機は人生の悲しみだと。
住人注;
哲学の動機は人生の悲哀でなければならない
>>>http://www18.ocn.ne.jp/~bell103/kindainisida1.html
>>>http://www.歎異抄.com/praise08.html
NHK「爆笑問題のニッポンの教養」制作班 (著), 主婦と生活社ライフ・プラス編集部 (編集)
名門大学の「教養」 東京大学・慶應義塾大学・京都大学・早稲田大学・東京藝術大学 (NHK爆問学問)
主婦と生活社 (2011/1/7)
P188
名門大学の「教養」 東京大学・慶應義塾大学・京都大学・早稲田大学・東京藝術大学 (NHK爆問学問)
- 出版社/メーカー: 主婦と生活社
- 発売日: 2011/01/07
- メディア: 単行本
正義 [哲学]
シンプルなものが強い [哲学]
現代の知識人は、簡単明瞭な物の道理を侮る風があるが、簡単明瞭な物の道理というものが、実は本当に恐ろしいものなので、
複雑精緻な理論の厳(いかめ)しさなぞ見掛け倒しなのが普通であります。人間だってそうだ。
後略~
新潮社 (編集)
人生の鍛錬―小林秀雄の言葉
新潮社 (2007/04)
P96
日本の近代批評の創始者であり、確立者でもある小林秀雄―。厳しい自己鍛錬を経て記されたその言葉は、没後二十余年の今日なお輝きを増し続け、人生の教師として読む者を導いている。人間が人間らしく、日本人が日本人らしく生きるためには、人それぞれ何を心がけ、どういう道を歩んでいくべきか。八十年の生涯の膨大な作品の中から選り抜いた、魂の言葉四百十六。
マリンビューアー南郷 こいのぼり
宗教のリミッター [哲学]
どの宗教体系においても、反社会的行為へと暴走する可能性は秘めています。それは間違いありません。しかし、実践と思想と歴史によって鍛え上げられてきた制度宗教の体系は、そのようなトラップに躓(つまず)かないよう、きちんと逆方向へと引っ張る力が働くような構造をもっているのです。
前出の、瞑想や禅においてしばしば起こる神秘的体験を単なる生理現象として切り捨てるという態度は見事なリミッターです。実際、不眠・過労・食制限などによって、生理的な負荷を増大させれば、通常では得難いイマジネーションを体験できます(オウム真理教のように薬物を使用すれば、もっと簡単に実現できますね)。
しかし、それは宗教体験の副次的産物でしかないことを知らしめる仕掛けが、鍛え上げられてきた体系にはきちんと内臓されているんです。もし、その体系を順に辿ることなく、理念のつまみ喰いをすれば、己の体験を必要以上に評価し、結果として自我肥大を起こすのも無理はないと思うのです。
「消費される宗教」や「情報としての宗教」の問題点はここにあるのではないでしょうか。それは自我を守るための道具であり、自我防衛反応としての霊性ではないか、と問いかけたいわけです。
このあたり、イスラム歴史学者のイブン・ハルドゥーンが言う、「ある程度制度宗教に精通せねば宗教が内包している毒を避けられない」という指摘は重要だということがわかります。どのような「宗教」においても、その体系をきちんと順序よくたどっていかねばうまく機能しないのではないでしょうか。
禅では、瞑想による神秘体験が智慧の獲得だとは考えません。仏教の智慧とはあくまで、ものごとの本質をありのままに見通し、あたり前のことをあたり前として引き受ける態度のことです。
現代の霊性論では、瞑想による生理現象と仏教が説く智慧とをごっちゃにしているのをよく見かけます。
いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P192
臼杵石仏古園石仏
自己嫌悪とは [哲学]
自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ。
「現代文学の不安」4-17
新潮社 (編集)
人生の鍛錬―小林秀雄の言葉
新潮社 (2007/04)
P29
今の自分を棄(す)てる覚悟 [哲学]
「未来の自分のためなら、今の自分を棄(す)てる覚悟がある」
これはわたしがいつも電子メールのおわりにつけるアイシュタインの名文句です。
アインシュタインはわかっていたんですね。神経回路が全体としてうまく働くことで、世界を生き抜くために必要な能力が与えられる。
~中略~
美しい細胞のひとつひとつ。ひとつひとつの神経回路。まさに驚くべき小さな部品が織り上げられて、「心」のネットワークをつくりだす。わたしが脳の中で体験する意識は、そうやって確立された集合的な「気づき」にほかなりません。
神経の可塑性(かそせい)のおかげで、つまり、他の細胞とのつながり方を変える能力のおかげで、弾力的に考え、環境に適応し、世界の中でどう生きるかを選びながら、あなたとわたしは、地球上を歩くのです。幸いなことに、今日、どんな自分になるのかは、昨日、どんな自分だったかで決まるわけじゃありません。
奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき
ジル・ボルト テイラー (著), Jill Bolte Taylor (原著), 竹内 薫 (翻訳)
新潮社 (2012/3/28)
P288
健全な精神を体験する権利 [哲学]
精神疾患であることの権利を主張する人もいますが、わたしはこう思います。たとえ、彼らの脳の病や外傷の原因が何であれ、健全な精神を体験して共通の現実を分かち合うことは、万人に与えられた平等な権利なのです!
奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき
ジル・ボルト テイラー (著), Jill Bolte Taylor (原著), 竹内 薫 (翻訳)
新潮社 (2012/3/28)
P258
死に直面した人に対して [哲学]
南(住人注;南直哉)「よくわかる」って言います。
「そうだろう。だけど僕はあなたが生きることを選ぶのを望むし、それが尊いと信じるね」と言うんです。「だけどあなたが死ぬというなら、その気持ちもよくわかる」と言います。
もうね、人間、そこまで行った状態だと理屈なんか届かない世界ですから。
で、何をやるかというと、私、笑わせようとするんです。
~中略~
死に直面した人というのは、もうね、通常の言葉は届かない。それは本人がいちばんよく知っている。
だからそういう人に仏教の教義とか哲学などはほとんど無意味です。
宮崎哲弥 仏教教理問答
宮崎哲弥 (著)
サンガ (2011/12/22)
P184
道具は得心がいくまで研け [哲学]
時代が進歩した言いますけどな、道具はようなってませんで。
P40
得心が行くまでというのは、これ以上研げんということですな。
そうすれば、道具は、頭でおもったことが手に伝わって道具が肉体の一部のようになるということや。
わしらにとって、道具は自分の肉体の先端や。
P41
西岡 常一 (著)
木に学べ―法隆寺・薬師寺の美
小学館 (2003/11)
法隆寺金堂の大修理、法輪寺三重塔、薬師寺金堂や西塔などの復元を果たした最後の宮大工棟梁・西岡常一氏が語り下ろしたベストセラー、待望の文庫版。宮大工の祖父に師事し、木の心を知り、木と共に生き、宮大工としての技術と心構え、堂塔にまつわるエピソード、そして再建に懸ける凄まじいまでの執念を飄々とした口調で語り尽くしている。氏が発するひとつひとつの言葉からは、現代人が忘れかけている伝統的な日本文化の深奥が、見事なまでに伝わってくる。
木にまなべ [哲学]
何百年もの間の種が競争するんでっせ。
それで勝ち抜くんですから、生き残ったやつは強い木ですわ。
でも、競争はそれだけやないですよ。大きくなると少し離れてたとなりのやつが競争相手になりますし、風や雪や雨やえらいこってすわ。
ここは雪が降るからいややいうて、木はにげませんからな。じっとがまんして、がまん強いやつが勝ち残るんです。
西岡 常一 (著)
木に学べ―法隆寺・薬師寺の美
小学館 (2003/11)
P23
法隆寺金堂の大修理、法輪寺三重塔、薬師寺金堂や西塔などの復元を果たした最後の宮大工棟梁・西岡常一氏が語り下ろしたベストセラー、待望の文庫版。宮大工の祖父に師事し、木の心を知り、木と共に生き、宮大工としての技術と心構え、堂塔にまつわるエピソード、そして再建に懸ける凄まじいまでの執念を飄々とした口調で語り尽くしている。氏が発するひとつひとつの言葉からは、現代人が忘れかけている伝統的な日本文化の深奥が、見事なまでに伝わってくる。
文明とは [哲学]
一一 文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。
世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些(ち)とも分らぬぞ。予嘗(かつ)て或人(あるひと)と議論せしこと有り、
「西洋は野蛮ぢや」と云ひしかば、「否な文明ぞ」と争ふ。
「否な否野蛮ぢや」と畳みかけしに、「何とて夫れ程に申すにや」と推せしゆゑ、「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮ぢや」
と申せしかば、其の人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。
西郷隆盛「南洲翁遺訓」―ビキナーズ日本の思想
西郷 隆盛 (著), 猪飼 隆明 (翻訳)
角川学芸出版 (2007/04)
P41
おかれた境遇を楽しもう [哲学]
人は須らく快楽なるを要すべし。
快楽は心に在りて事に在らず。
「言志耋録」第七五条
佐藤 一斎 著
岬龍 一郎 編訳
現代語抄訳 言志四録
PHP研究所(2005/5/26)
P210
ヒトは性善か性悪か [哲学]
これまでの話はとても悲観的なことばかりのように聞こえると思うが、明るい側面もある。なんといっても、人間は生まれつき社会的で信じやすい生き物であり、そうすべきではない合理的ではっきりした理由があっても、ついお互いを信じるところがある。
信用がうしなわれたときそれを乗り越えるのは簡単ではないが、適度な投資と方向づけがあれば、信用を回復するのは可能だと思う。
予想どおりに不合理[増補版]
ダン アリエリー (著), Dan Ariely (著), 熊谷 淳子 (翻訳)
早川書房; 増補版版 (2010/10/22)
P342
カリスマ性 [哲学]
カリスマ性のある人は、感化する能力を生まれつき備えているわけではない。そうなる潜在能力を秘めて生まれてくる。その潜在能力がつちかわれると、カリスマ性のある人は自分のエネルギーの強さで他人を引きつけられるようになる。
前向きで刺激的なエネルギーがみなぎっている人―室内を自分の存在感で満たしてしまう人や、生の情熱をもっている人―といっしょにいると、その人に引きつけられる。その人のエネルギーは伝染する。
そのようなカリスマ性は神から生じる。その人にカリスマ性があるのは、元気旺盛で、まわりの人と感応するからだ。その人の高純度の気は、ほかの人のもっともよい部分を呼び起こし、神を引き出す。
~中略~ カリスマ性のある人は、人を魅了する独自の特別な個性をもっているからカリスマ性があるのではない。カリスマ性のある人は自己を修養しているのではなく、エネルギーを修養している。気を修養している。
カリスマ性があって生き生きしているのは、その人の内にある高純度の気が、まわりに存在する高純度の気とまったく同じだからだ。まわりの気と強く感応するからこそ、ものごとを変えられる。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義
マイケル・ピュエット (著), クリスティーン・グロス=ロー (著), 熊谷淳子 (翻訳)
早川書房 (2016/4/22)
P170
神のエネルギー [哲学]
P156
あらゆる物の精は、これこそが物に生を与えている。地上では五穀を生じさせ、天上ではつらなる星となる。天地のあいだを流れていればそれを鬼神と呼び、それを胸中におさめている人を聖人という。【30】
神のエネルギーという概念は、古代ではとくに珍しくなかった。それどころか、ユーラシア全体にわたる概念だった。インドには「プラーナ(気息)」という概念があり、ギリシアには「プネウマ(息吹、霊魂、霊)という概念があった。どの概念もすべて、ことばで言いあらわせず目にも見えない生命の力が宇宙全体を駆けめぐり、生命そのものの起源に関与しているという感覚を説明していた。
今日、多くの人は活力の実感が神のエネルギーから生じるという話に懐疑的だろう。けれども、<気>は、わつぃたちが元気になるために必要なものをあらわすのに便利なたとえだ。
本当にあると信じなくとも、そこから学べることがある。わたしたちはただ、このようなエネルギーを<かのように>の考え方でとらえればいい。~中略~
通常、わたしたちは二元論的な世界観をもっている。神と人間、物質とエネルギー、心と体―これらをばらばらのことがらととらえている。しかし、「内業」は一元論的な世界観をもち、世界や人間のありとあらゆる要素が気という同一のものでできていると説く。
心でも体でも物体でも精神でも、土でも人でも動物でも空気でも、とにかくなにもかもがこのまったく同じ物質でできている。
しかし、気はあらゆるもののなかに存在しながら、純度の違いは無限にある。岩、泥、土など、宇宙の無生物の部分は、劣った粗い気でできている。これは「濁った気」とよべるだろう。
純度が高くなるにつれて、気は<精>になる。精がほかのすべてと別格なのは、生きているもののなかにしか存在しないからだ。植物や動物がもつ生気を与える力だ。
最後に、気がもっとも霊妙で純度が高い状態のとき、<紳>の気になる。神の気はエネルギーがきわめて高いため、まわりのものに実際に影響をおよぼす。神の気は魂そのものだ。魂は生気を与えるだけでなく、生物に意識を与える。
植物は生気を与える気、すなわち精を宿しているが、神にはなれない。魂をもつことはかなわない。考えることも世界に手を加えることもできない。ただ世界に存在するだけだ。
一方、魂は神の気であり、生気にあふれ能動的で生き生きしている。完全に鮮明で、一点の曇りもない意識で世界を見る。あますところなく世界を見られることで、世界に変化をもたらす作用を発揮できる。
※30 凡(およ)そ物の精(せい)は、比(ひ)すればすなわち生をなす。下(しも)は五穀を生じ、上(かみ)は列星(れつせい)となり、天地の間に流(し)く、これを鬼神(きしん)という。胸中に蔵(ぞう)する、これを聖人という。
P169
周囲の浮き沈みに左右されず、感覚が洗練され、体は中世を保って健康なら、安定した心に到達する。これによって、きみの全存在は<精>(住人注;純度の高い気)の器になる。
安定した心が内にあれば、耳や目は鋭敏になり、両手両足は健全になり、には精が宿ることになる【35】
<気>はきみの内面できわめて重度の高い、集中した状態となり、きみは最上位の気からなる<神>のような状態になる。神は、活力にあふれた長命の人生を可能にする。きみは、”まるで神のように気を一つに集中する【36】”ことを学んだということだ。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義
マイケル・ピュエット (著), クリスティーン・グロス=ロー (著), 熊谷淳子 (翻訳)
早川書房 (2016/4/22)
ありのままの~♪姿見せていいの? [哲学]
わたしたちはよく、自分を受け入れることで成長できると聞かされる。「ありのままの自分を愛しなさい。この瞬間の自分という人間を受け入れて心安らかでありなさい」と言われる。自己受容は自分自身だけでなく、自分の人生をも受け入れることにつながり、それによって、ある程度の平静さが得られる。
しかし、本書の哲学者のひとりは、このような自己受容を憂慮したことだろう。紀元前三一〇年生まれの儒家、荀子は、自分をありのまま受け入れるべきだとは考えなかった。
むしろ、自分にとって自然だと思えるものをいい気になって受け入れるべきではないと論じた。 ~中略~
荀子はつぎのように書いている。
人の本性は悪であって、それを善にするのは人為によるものだ。今、人の本性には生まれつき利益を好む傾向がある・・・・・・また、生まれつき人をねたみ憎む傾向がある・・・・・・そうだとすれば、人の本性に従い、感情のまま行動すると、かならず争い奪い合うことになり、社会の秩序が乱れ、ついには天下に混乱をきたす。【44】
※44 人の性は悪にしてその善なる者は偽(ぎ)なり。今、人の性は生まれながらにして利を好むことあり・・・・・・生まれながらに疾(ねた)み悪(にく)むことあり・・・・・しからずば人の性に従い人の情に順(したが)えば、かならず争奪に出(い)で、犯文乱理(はんぶんらんり)に合いて、暴(ぼう)に帰す。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義
マイケル・ピュエット (著), クリスティーン・グロス=ロー (著), 熊谷淳子 (翻訳)
早川書房 (2016/4/22)
P200
荀子 [哲学]
荀子は高名な師匠で当代きっての儒家として戦国時代の末期を生きた。そのことが荀子の思想形成におおいに影響をおよぼした。当時はいくつかの国が軍事力を高め、他国を圧倒しはじめており、覇権を握るのがどの国であれ、その後にもたらされる世界では、孟子の思想が役に立たないことは明らかだった。
このあたらしい政治情勢は知的世界に影響を与えた。時代の混乱と無秩序を目撃した荀子などの思想家は、盛情に対する統一的な解決策を求めただけでなく、過去の時代からの種々異なる哲学的系譜を取りあげ、首尾一貫した統一体にまとめあげる統合命題をも探求した。
荀子は、でたらめな自然の要素を能動的に織り合わせ、世界に〈ことわり〉(パターン)をもたらす存在として人間を描きだし、それと同じように、過去三世紀にわたる数々の刺激的な概念や思想に規則性(パターン)を与えた。
荀子は自分の哲学を確立するなかで、自分に先んじた思想家たちがたしかに大きな意義のある概念を生み出していたと考えるようになった。たとえば、孟子が自己修養に着目したのは正しかったし、人間がものごとを結びつけるという老子の考えはきわめて重要だ。
けれども、荀子は同時にどの思想家にも盲点があると論じた。おのおの重要なことを理解しながらも、大局観にかけていると考えた。
ただし、孔子だけは別格だった。荀子は、孔子だけがもっとも重要な、もっとも根本的な慣例を理解していたと考えた。よりよい人間になるための〈礼〉の修練だ。 ~中略~
荀子は、礼がそのとおり人為であると認識できたとき、はじめて人の本性を変える礼の力が発揮されると考えた。この人為という認識こそ、世界全体にも適用すべきだと荀子が説いているものだ。そうすれば、礼はよりよい世界の構築にも役立つものになる。
ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義
マイケル・ピュエット (著), クリスティーン・グロス=ロー (著), 熊谷淳子 (翻訳)
早川書房 (2016/4/22)
P204