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ことばは信じてはいけない [日本(人)]

前略~ その場の雰囲気を悪くするような発言は、たとえ内容が正しくとも、嫌われる。つまり、日本の社会では、あまりはっきりモノをいうと不作法なのだ。
この国では、はっきりことばでいわずとも、態度や表情で意志を通じ合うコミュニケーション技術、いわゆる「腹と腹の伝達」が発達した。そしてそれがさらに進むと、ことばのほうは建前、したがって信じてはならない、ということになってしまう。
「日本とは何か」

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る
堺屋 太一 (著)
PHP研究所 (2004/12/7)
P63

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

  • 作者: 堺屋 太一
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/12/07
  • メディア: 単行本

 

IMG_0053 (Small).JPG大谷山荘


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守り本尊 [日本(人)]

 日本人はみな職業によって様々の守護神や守り本尊をもっている。たとえば船乗は船魂(ふなだま)神社を祀(まつ)り、大工左官は聖徳太子を崇(あが)め、魚屋は恵比須(えびす)を、裁縫師は伎芸天を(ぎげいてん)を、三味線や琴の師匠は吉祥天(きっしょうてん)を祭ると云ったように、それぞれの職域を神聖なものとして、自分の芸や仕事を磨いてきた。これは世界に例のない床しい習慣だと思う。
芸の危うさを本能的に知っている。職人気質(かたぎ)の然(しか)らしむるところだ。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P111

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

  • 作者: 勝一郎, 亀井
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/04/28
  • メディア: 文庫


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異様(ことよう)の者 [日本(人)]

 吉田兼好の「徒然草」に謎の段があります。
「因幡に国に、何の入道とかやいふ者の娘 容(かたち)美しと聞きて、人数多(あまた)言ひわたりけれども、この娘、唯栗をのみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、斯(かか)る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」
(第四〇段・全文)

~中略~
「個性を尊重しましょう」という考え方がでてきた現代でも、集団の平均から外れた性質や能力、違いを持っていると仲間外れにされたり、白い目で見られたり、場合によっては村八分のような目にあわされたりすることがあります。
~中略~
 日本では、他の人と違っている、「変わっている」ということは、それ自体がネガティブな意味を持つ傾向があり、そう見なされることに対して極度の警戒心を持っている場合が多いようです。

「栗が好きなくらいで、結婚を禁止してしまう」というナントカ入道の行きすぎとも感じられる行動が、日本人のこの傾向を象徴的に表している。
吉田兼好はこのことについて慨嘆してみたのではないかと思ったわけです。

「こころ」は遺伝子でどこまで決まるのか―パーソナルゲノム時代の脳科学
宮川 剛 (著)
NHK出版 (2011/2/8)
P228

「こころ」は遺伝子でどこまで決まるのか パーソナルゲノム時代の脳科学 (NHK出版新書)

「こころ」は遺伝子でどこまで決まるのか パーソナルゲノム時代の脳科学 (NHK出版新書)

  • 作者: 宮川 剛
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2016/11/30
  • メディア: Kindle版

 

IMG_3847 (Small).JPG高松

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平和の国「日本」 [日本(人)]

 征服による融合では、基本的に(住人注;征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。
もし、渡来人が縄文時代から続いた在来社会を武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは、著しく頻度を減少させたでしょう。
これだけの頻度でハプログループDが残っているのは、縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明ができません。
また日本では、その後の歴史のなかで、特定のハプログループが特に拡大することもなかったようで、そのあたりの事情の違いが大陸のハプログループ頻度との差を生み出しているのでしょう。大陸と日本に見られるY染色体DNAのハプログループ頻度の違いは、日本ではなく、大陸の方に原因がありそうです。
~中略~
また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。
 


日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造
篠田 謙一 (著) 
  日本放送出版協会 (2007/02)
P200


日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)

日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)

  • 作者: 篠田 謙一
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2007/02/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 




DSC_0642 (Small).JPG鶴林寺 (加古川市)


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内と外 [日本(人)]

 遠慮の有無は、日本人が内と外という言葉で人間関係の種類を区別する場合の目安となる。
遠慮がない身内は文字通り内であるが、遠慮のある義理の関係は外である。
しかしまた義理の関係や知人を内の者と見なし、それ以外の遠慮を働かす必要のない無縁の他人の世界を外と見なすこともある。
いずれにせよ内と外を区別する目安は遠慮の有無である。

「甘え」の構造 [増補普及版]
土居 健郎 (著)
弘文堂; 増補普及版 (2007/5/15)
P62

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

  • 作者: 土居 健郎
  • 出版社/メーカー: 弘文堂
  • 発売日: 2007/05/15
  • メディア: 単行本

 

IMG_3874 (Small).JPG高松

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日本は幸せな平和な国 [日本(人)]

  「日本の歴史をつぶさに調べれば、この国の人々の体験からほとんど欠落しているものが三つあることに気付く。それは、本格的な籠城戦、計画的な皆殺し、そして人民の武装抵抗、つまりゲリラ戦である」
 右は、あるドイツの戦史研究者が書いた文章の一部である。
 確かにそうだ。世界史的常識の尺度で見た場合、この三つは日本史のなかにほとんどない。
~中略~
「小田原評定」などという言葉を生んで、長期攻防のの代名詞となっている北条氏の小田原城もちょうど三カ月で投降・開城しているのである。
 外国では、数カ月程度のものは「籠城」とはいわないのが普通である。「本格的な籠城戦」というのはすくなくとも一年、一般には収穫期を二度以上過ごしたものをいう。
フビライの元軍に包囲された襄陽(じょうよう)は五年間持ちこたえた。十字軍の城、アッコンは七年間の包攻に耐えた。アサッシン教団の本拠、ペルシャのラムアッサール城は、フラグの大軍に蟻も這い出せぬほどに厳重な包囲を受け、なお十七年間戦い続けた。この堅固な城塞が陥落したのは、衣服がすり切れて凍死者が続出したためといわれて永る。
計画的に組織された皆殺しも日本史にはほとんどない。日本では、戦いに敗れ、亡国落城の悲運に見舞われても、生命を失うのは殿様とその一族や少数の重臣だけで、不運な戦死者を別にすれば、中堅以下の武士はたいてい助命され逃亡する。ときには、城主・大名でさえ生命ばかりは許されて入道して余命を全うすることができることもあった。
 まして、非戦闘員の農民・町人になると、偶然の手違いか気まぐれ以外では殺されることはまずない。このことは現代に至るまで日本人の戦争観を支配している。
太平洋戦争中に、日本人はかなり大量の現植民を殺害したが、そのほとんどは将兵の逆上か不本意な手違いによるもので、計画的組織的なものではない。日本軍の「残虐行為」は刑事犯罪的ではあっても、計画的政治犯とはいえないのである。
 ところが、ヨーロッパや中東や中国では、計画的に組織化された皆殺しが、何百回となく繰り返されている。敗軍の将兵はもちろん、非戦闘員たる農民・市民・女・子供に至るまでを殺し尽くした例がいくらでもある。
~中略~
一七世紀の三十年戦争においては、ドイツ皇帝の軍も、スウェ―デン王やフランス王の軍も、町ぐるみの皆殺しを何十回となくやっている。ために、この長い戦争の間にいくつかの大都市が無人と化し、全ドイツの人口は三分の一に減ったといわれている。現代史の範囲に入ってからも、トルコ人はアルメニア人に対して、ナチはユダヤ人に対して、緻密な計画のもとに伝統的な蛮勇をふるっているのである。
 日本史におけるゲリラ戦の欠如も明白だ。日本では、戦争といえば戦闘要員同士が堂々の隊伍を組んで行なうものと決まっているらしく、森に潜み山に隠れてこっそり敵の寝首をかくような「卑怯な真似」をする者はまずいない。城を奪われ地府が陥れば、戦争は終るのが普通である。
~中略~
 したがって、日本人が経験した戦争は、ほとんどすべて国内戦争であり、同一の民族の中での共通の倫理観を持つ者同士が争うものであった。つまりそれは、土地、住民の支配権や商業利益を争奪する一部上層階級の権力闘争に過ぎなかったのである。この意味では、日本人の戦争はみな、「秘匿性のないクーデター」だったといえる。
 異なる民族、異質の倫理観―そのなかには宗教、思想、生活慣習などの一切が含まれる―の間の戦いと、共通の倫理観を持つ均質的民族同士の争いとは、全く違う。前者を革命戦争とすれば、後者は自民党内の派閥争い程度でしかない。
 異なる倫理観をもつ異民族との戦いは、考え方と民族の存亡を賭けたものだから敵対者に対して峻烈を極める。異なる倫理を押しつけられてはかなわないからゲリラになっても抵抗する。ゲリラをやられては困るから皆殺しもしたくなる。皆殺しは怖いから非戦闘員も城壁のなかに入り、長期籠城に耐える。外国の都市がみな城壁に囲まれているのはこのためである。
~中略~
 こう見てくると、日本はまことに幸せな平和な国だったことがわかる。したがってそこに住む人間も、軍事的発想に疎く、安全保障の概念を失っている。
 


歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか

堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P91


歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)

歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)

  • 作者: 堺屋 太一
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版
  • 発売日: 2004/03/02
  • メディア: 文庫

P28
 近代的とは、文明的と言い換えてもよい。事実において、日本は世界に誇るべき近代文明を有している。世界で最も治安が良く、豊かで、そこに住む人が親切な国が日本である。これは間違いなく誇ってよい。
 だからこそ、他の国が何を考えているかを理解できないのであるし、「近代」「文明」の何たるかを理解しにくくなるのだ。「平和」「秩序」「自由」「清潔」などを、空気のように所与の前提と思っていまうのが日本人である。一回でも海外旅行に出たことがあるならば、日本のありがたさを思い知るだろう。


P104
本章では、絶対主義の確立と宗教戦争の終結、そして近代化の原初段階を概観したが、日本人にとっての当たり前が、ヨーロッパ人にとっては当たり前ではなかった。
この事実に対する無知と無理解こそが、歴史問題を考えるうえでの障害なのである。


P133
 一八〇八年、イギリス船フェートン号が長崎で狼藉を働いたが、日本は何もできなかった。オランダ船を装って乱入し、ナポレオン戦争で敵国民であるオランダ人を拉致し、奉行所から身代金代わりに食料と燃料を奪い、悠々退散したのである。
この頃の江戸幕府は天下泰平に慣れており、警備の佐賀藩は兵を派遣していなかった。
 江戸幕府には、オランダ商館から年に一度提出される「オランダ風説書」の情報から変化を読み取り、本国がナポレオンに併合されていることを見抜くような知見に優れた官僚も存在した。
 しかし、後に「大御所時代」と呼ばれる長い統治を一七九三年に開始した十一代将軍徳川家斉の治世は、弛緩の極みであった。家斉が死ぬ一八四一年まで、日本は五十年に及ぶ太平の眠りにつく。
 すでに日本が鎖国と称する武装中立を行なえなくなっていた時代、大御所時代の五十年をかけて、ヨーロッパ白人列強はユーラシア大陸を東進していく。


P142
 天文十八年(一五四九年)のフランシスコ・ザビエルによるカトリック伝来以来、日本は白人の侵略を撥ね返してきた。それだけの実力があった。しかし、江戸時代を通じてロシアの脅威が迫り、アヘン戦争により大英帝国の摩手を実感したとき、日本は並大抵の自己改革では生き残れないことを悟った。
 嘉永六年(一八五三年)、日本人はペリーの黒船に圧倒された。こっかの生存が鉄と金と紙によって決するならば、軍事力と経済力で日本人が劣っていることは明らかだった。すなわち、鉄と金では完敗だった。しかし、紙では決して負けなかった。
 紙とは外交力と文化力である。判断力も範疇に含まれる。幕末動乱は平坦ではなかったし、明治維新への道は一直線ではなかった。しかし、嘉永六年から明治元年(一八六八年)までの十五年間の歴史を通観すれば、日本人は民族として、国家として、大きな誤りは犯さなかったと言える。


日本人だけが知らない「本当の世界史」
倉山 満 (著)
PHP研究所 (2016/4/3)




日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか (PHP文庫)

日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか (PHP文庫)

  • 作者: 倉山 満
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2016/04/03
  • メディア: 文庫




伊勢神宮 内宮 (83).JPG伊勢神宮 内宮

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出雲族 [日本(人)]

P64
すると、出雲族とはどういうグループかとなれば、もう霧のむこうの人影を見るようで、わかりにくい。大和土着の種族であることはたしかである。イヅモとは、「倭名類聚抄」で以豆毛と発音し、古代発音ではおそらく ingdmo と発音していたかとおもわれる。
「出雲国」
 というのは、明治以前の分国で、いまの島根県出雲地方をさす地理的名称だが、しかし古代にあってはイヅモとは単に地理的名称のみであったかどうかは疑わしい。種族名であったにちがいない。さらに古代出雲族の活躍の中心が、いまの島根県でなくむしろ大和であったということも、ほぼ大方の賛同を得るであろう。その大和盆地の政教上の中心が、三輪山である。出雲族の首都といっていい。
三輪山は、神の名としては、
「大物主命(おおものぬしのみこと)」
 という。人格神ではない。大物主とは、国土のもちぬしという意味だろうか、この神とこの神の系統の神々については「記紀」などの神話には人格に記述されているが、それは記述法であるにすぎまい。要するに、
「ミワ」
 という種族は、大物主神を種族における最大の神として仰ぎ、三輪山のまわりに住み、ふもとの海柘榴市(つばいち)で市をいとなみ、主として大和東部地方にひろがって農耕をいとなんでいたイヅモであることは、異論が少ないであろう。
 大和のイヅモにはもう一派いる。
「カモ」
 という。のちに鴨、賀茂、加毛、蒲生などと書き、地名になってしまうが、もともと種族名であったということは、あらためていうこともない。~中略~
 古代のある時期の大和盆地には、カモ・グループとミワ・グループが併存していたことは、たしかである。この二つのイヅモの言語が、こんにちの日本語にいたるこの国のことばの主調をなすものであろう。 そこへ出現するのが、崇神王朝であったでろう。後世、天皇家系の第十代目に組み入れられたこの人が、征服者として三輪山の地に出現したことは、まぎれもない。ミワ族とはまったく別系統の人物であることは、「日本書紀」のなかの噺をみても想像できる。
~中略~
「若し能く我を敬ひ祭らば、必ず当に自平ぎなむ」(日本書紀)
といった。帝はおどろき、誰が神ぞや、と問うと、神はいう、
「大物主神と為(い)う」
 と。ここで天孫系とは別系列の国つ神が、崇神の王家にはじめて入るわけであり、このいきさつは、崇神帝とその武装グループが大和以外の地―九州か、あるいは満鮮の地であろう―からやってきたことをよくあらわしている。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか (朝日文庫)

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫

 

DSC_5769 (Small).JPG聖林寺

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日本人のミトコンドリアDNA [日本(人)]

 この章のはじめに示した図5-1を見てもわかるように、日本人にもっとも多いハプログループはDです。
~中略~
D4、D5の双方で日本の人口に占める割合は四割弱となります。ハプログループD4と5は中央アジアから東アジアにかけてもっとも優勢なハプログループで、朝鮮半島や中国の東北地方の集団でも、この二つがおおむね人口の三割から四割程度を占めています。ですからハプログループDを持つひとの総人口は数億を数えるでしょう。東アジア最大のハプログループです。


日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造
篠田 謙一 (著)
日本放送出版協会 (2007/02)
P103

 


新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

  • 作者: 篠田 謙一
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2019/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)





DSC_0650 (Small).JPG鶴林寺 (加古川市)

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武士の始まり [日本(人)]

  武士というのは、もともと律令体制下の開墾百姓をさす。
 八世紀の武士というのは、公家という非競争の社会に対する競争社会の産物としていきいきと生きた。
基本としてかれらは利を競う。次いで勇を競う。さらには美を競う。それが江戸期入ると単なる法制的存在になりおおせてしまうのだが、江戸期のことはさておく。
 日本のながい歴史の上で武士勢力が潜在し、顕在して巨大な活力で動きつづけてきたのは、かれらが戦争屋であるからではない。輸入された律令的な社会固定主義の権力もしくはたてまえに対し、土着の私的権利を主張するという、とほうもないエネルギーを彼らは発生早々からもっていたからである。
~中略~ なにが社会のために正義かという観念は―せめて観念だけでも―日本社会には存在せず、したがって力に負けた弱い勢力への同情を「正義」の基準でやるわけにはいかない。日本にあっては、弱小勢力はそのまま不徳義でさえある。
平家の敗亡は自業自得であり、織田信長によって討滅されてゆく地方地方の弱小勢力は「彼らは競争の原理に不忠実で、だから怠けていてじだらくだからだった」とみる。


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)
P140

 


街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)

街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫


DSC_0614 (Small).JPG鶴林寺 (加古川市)


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高度成長を支えたメカニズムの一つ [日本(人)]

 日本経済の高度成長を支えたメカニズムの一つは、欧米の金融機関や産業界には理解し難い低利融資の存在であった。
それを可能にしたのが、低貯金金利政策という戦後型徳政令と、後に触れる財政投融資制度だった。
~中略~
 一方、銀行や企業は、不動産や出資や持ち合いで獲得した株式を、ほとんど売却しなかった。特に資本自由化以後は、安定株主として持ち続けた。
 そうした不動産や株式の価格は長期間にわたって上昇し、銀行や企業は膨大な含み益を蓄積することになった。

 これが戦後の日本で、長期間、巨大な規模で展開されてきた徳政令のメカニズムである。
徳政令を発布したのは現代の「得宗」こと大蔵省、~略~徳政令の対象は銀行を窓口とした産業界、徳政令の被害者は資産を形成し損なった預貯金者、恩恵を受けたのは含み益を抱えた銀行と企業、そしてこの徳政令に、政府は一文の負担もしていない。

「借金棒引き」の経済学 ―現代の徳政令
北村 龍行 (著)
集英社 (2000/8/17)
P97

「借金棒引き」の経済学 ―現代の徳政令 (集英社新書)

「借金棒引き」の経済学 ―現代の徳政令 (集英社新書)

  • 作者: 北村 龍行
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2000/08/17
  • メディア: 新書

 

DSC_6212 (Small).JPG臼杵石仏山王石仏
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関東と関西 [日本(人)]

森 毅
 関東文化というのは、「侍文化」だと思います。対して、大阪、関西の文化は「町人文化」だと考えます。身分制度の中でも、兵と農には共通点があります。
昔はとくにそうだったのでしょうが、土地を囲って、太陽の恵みでモノを育て、それを守るというのが兵・農です。

~中略~
それに対して、町人は違います。町人ー職人を含めてーの基本は物売りです。自分でつくったものや細工物を売るわけです。その場合、人が出入りししなかったら商売になりませんから、人を歓迎します。
それも、買う人だけだったらダメで、野次馬がいるから店が繁盛するので、どちらかというと開放的です。
人が出入りするのが家という関西、そして自分のテリトリーを守るのが家という関東、という違いがあるように思うのです。

~中略~
いまでこそ東京は、日本の中心であり、文化も東京のものが標準だというように考えているようですが、そもそも都の原理からいえば、よそものが来る場所であって、東京にしてもいろいろな地方から人間が集って、その良さを生かしていかないとしょうがないでしょう。

森 毅 (著), 養老 孟司 (著)
寄り道して考える
PHP研究所 (1996/11)
P140


寄り道して考える

寄り道して考える

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2022/01/17
  • メディア: 単行本

 

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中世の日本 [日本(人)]

 中世の日本の社会は、土地所有の矛盾の激化で幾度も動乱がおこり、幾度もその矛盾を解決しようとする政権ができ、できては土地の現実にあわず、在郷の期待から外れてしまい、無力化した。
 奈良・平安期の律令制というのは、京の公家が土地を公(この場合の公とは公家の公というにちかい)のものとし、人民を公民としたが、本質的には法によって農民を土地にしばりつけ、農奴にしたに等しい。
ぬけみちとして荘園という私有地もあったが、それをもつことは公家や寺院にのみゆるされた特権だった。荘園農民はむろん、律令農民と同様、農奴的であったことにかわりがない。
 平安末期に、各地でさかんに開墾がすすむ。律令制の束縛からにげだす者は「浮浪」といわれたが、かれらはべつに流転していたわけではない。かれらを召しかかえる親方が各地にいて、多くはその傘下に入った。
かれらはその親方のもとではあらたに「郎党」などというかっこうのいい呼称でよばれたりした。かれらの平素のしごとは河川から水をひく灌漑工事に従事することで、親方のために新田を開墾した。その親方たちがやがて「武士」と称せられるようになるのだが、しかし「武士」には土地所有権がなかった。
京の公家や寺院にそれらの土地を献上し、その名義上の所有者になってもらうことによって荘園として公認された。
「武士」は自分が開墾した農場の管理人としてしか存在できず、所有がきわめて不安定であった。その安定を希求して公家と対立し、源頼朝をかついで成立するのが、鎌倉幕府である。親方たちは、頼朝の「御家人」になることによって、その所領の所有権を安定させることができた。
 ところが、その後もなお開墾が進み、あらたな親方が成立してゆくのだが、これらは京都体制(公家の律令制)のなかにも入らず、あらたな体制である鎌倉の御家人帳にも名が載らず、どの権威からも庇護されなかった。鎌倉・室町のことばでいう「悪党」などというのは、この種の新興地主が多く含まれる。
~中略~
 この自作農・新興地主たちは、恃(たの)むべき勢力がないために、はじめは集落(あざ)単位で自衛し、次いで村単位となり、さらに広域化して幾つかの村が連合し、集落からの年寄りを選び出し、その年寄りたちが広域の場にあつまって広域の自治行政をやり、内外のことを決めるようになった。そういう新興の広域連帯村落のことを、惣村というのである。所によっては惣荘ともいう。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)

P70


街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫)

街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/10/07
  • メディア: 文庫

 



DSC_2626 (Small).JPG一畑寺(一畑薬師)

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坂東武者は渡来人 [日本(人)]

 百済人がその故郷にあったころ、戦闘にあけくれていた。北は高句麗の圧迫をふせぎ、東は新羅と戦いつづけて、かれらは日本地帯のひとびととはちがい、戦闘に習熟していた。
 しかも百済人は、北方の高句麗騎兵になやませつづけていたから、当然、騎射には熟達していたにちがいない。
 そのころの大和から西日本一帯は、瀬戸内海があるため、船には長じていた(白村江の海戦では敗れたものの)。 しかし馬にはきわめて不熟練であり、第一馬そのものがあまりいなかった。
 そういう日本列島にあって、その東の辺陬(へんすう)に突如騎馬文化が成立するというのは、百済人2千の入植という事実をはずしては考えられない。
 この集団が、日本史上、われわれが誇る、もっとも典型的な日本人集団とされる坂東武者に変ってゆくことを思うと、東アジアに人間の交流や、文化の発生にかぎりないおもしろさを覚える。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)
P106

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

DSC_0980 (Small).JPG川中不動と天念寺

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出雲大社 [日本(人)]

 さて、出雲王朝のヌシである大国主命の降伏後の出雲はどうなったか。出雲へは、「高天ガ原」から進駐軍司令官として天穂日命(あめのほひのみこと)が派遣された。
駐屯した軍営は、いまの松江市外大庭(おおば)村の大庭神社の地である。ところが、この天孫人はダグラス・マッカーサーのような頑固な性格の男ではなかったらしく、「神代記」下巻に、「此の神、大己貴命に佞媚(ねいび)して、三年に及ぶまで、尚ほ報聞せず」とある。出雲人にまるめこまれたのであろう。~中略~ ゴウをにやした高天ガ原政権では、さらに天穂日命の子である武三熊之大人(たけみくまのうし)という人物を派遣した。
しかしこの司令官もまた「父に順(したが)ひ、遂に 報聞」しなかった。
 当然のことながら、高天ガ原では、大国主の生存するかぎり、出雲の占領統治はうまくゆかないとみた。ついに、大国主に対して、「汝、応(まさ)に天日隅宮(あまのひすみのみや)に住むべし」との断罪をくだした。
 この天日隅宮が、つまり出雲大社である。おそらく、大国主命は殺されたという意味であろう。
かれが現人神(あらひとがみ)であるかぎり、現地人の尊崇を集めて占領統治がうまくいくまい、とあって、事実上の「神」にされてしまったのである。
この点は、太平洋戦争終結当時の事情とやや似てはいるが、二十世紀のアメリカは、天孫民族の帝王に対してより温情的であった。しかし神代の天孫民族は、前代の支配王朝に対して、古代的な酷烈さをもってのぞんだ。
 大国主命は、ついに「神」として出雲大社に鎮まりかえった。
もはや、現人神あった当時のように、出雲の旧領民に対していかなる政治力も発揮しえないであろう。
「祭神」になってしまった大国主に対して、高天ガ原政権は、進駐軍司令官天穂日命とその子孫に永久に宮司になることを命じた。
 天孫族である天穂日命は、出雲大社の斎主になることによって出雲民族を慰撫し、祭神大国主命の代行者という立場で、出雲における占領政治を正当化した。
奇形な祭政一致体制がうまれたわけである。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり、同時に連綿として出雲大社の斎主となった。
いわば、旧出雲王朝の側からいえば、簒奪者(さんだつしゃ)の家系が数千年にわたって出雲の支配者になったといえるだろう。
いまの出雲大社の宮司家であり国造家である千家氏、北島氏の家系がそれである。



司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10

司馬遼太郎 (著)


新潮社 (2004/12/22)

P231



司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫



 


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晦日(つごもり)の夜 [日本(人)]

~前略
大晦日の夜は、大変暗いのに、松明などをともして、夜半過ぎまで、人の家を尋ねて走り廻り、何ごとだろうか、大げさに騒ぎ立てて、足が空に浮いているように、あたふたやっているのが、明け方からは、さすがに静まってしまったのは、旧年の名残が惜しまれて心淋しいものである。死んだ人の霊が、帰って来る夜だといって、大晦日に精霊を祭るわざは、この頃はもう京都にはないのを、関東の方ではまだ今でもやることになっていたのは感慨深いことであった。
 こうして、明けてゆく元旦の空の景色は、別に昨日と変わったとは思われないけれど、前日にひきかえて、清新な珍しい気持ちがする。都大路(大通り)の様子も、門松を立てつらねて、陽気にうれしそうなのは、また特別な感じがするものである。  

徒然草―現代語訳
吉田 兼好 (著), 川瀬 一馬
講談社 (1971/12)
第十九段

 

徒然草 (講談社文庫 古 3-1)

徒然草 (講談社文庫 古 3-1)

  • 作者: 吉田 兼好
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1971/12
  • メディア: 文庫

 

 

-3dbbb.jpg山荘 天水

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倭国から日本国へ [日本(人)]

それでは、日本という国名が決まったのはいつなのかといいますと、現在の大方の学者の認めるところでは、浄御原令(きよみはらりょう)という法令が施行された六八九年とされています。
浄御原令は天武天皇が編纂を開始して、死後その皇后の持統が施行した、はっきりと存在が確認されている法令です。その前に近江令があったという説もありますが、これは整備された形ではできていなかったという説が有力です。
 対外的には、大宝律令が制定された七〇一年の翌年、中国大陸に到着した遣唐使の粟田真人が当時の周の皇帝・則天武后(中国大陸の国家の歴史上。唯一の女帝で、国号を唐から周にかえています)に対して、「日本」の使いであると述べたのが最初といわれており、これは、ほとんどすべての学者が認めています。
それまでは「倭王」の使いであるといっていたのが、七〇二年に変わったのです。つまり国名を「倭」から「日本」に変えたのですが、そのことから、「日本」という国号が公式に決まったのはのれ以前ということになり、六八九年の浄御原令施行の時が最も可能性が高いと考えられています。
~中略~

 いずれにしてもはっきり言えることは、この時以前、つまり倭から日本に国名を変えた時より前には、日本国という国は地球上に存在しなかったということです。
存在していたのは倭国であり、それは倭人という集団を中心とした国でした。倭王という称号で中国大陸に使者を送るようになったのは、三世紀の卑弥呼の頃からだといって間違いないと思います。
それ以降は、厩戸皇子、のちに「聖徳太子」といわれた人の時に送った遣隋使も倭国王の使いと言っており、決して日本国の使いとは名乗っていません。
ですから、こう言うと驚かれますが、「聖徳太子」は日本人ではなかったのです。自分で倭人と言っていたのですし、倭人イコール日本人では決してないのですから、実際、関東人はおそらく倭人ではないでしょうし、東北人や南九州人は倭人ではないのです。

歴史を考えるヒント
網野 善彦(著)
新潮社 (2001/01)
P16

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

  • 作者: 網野 善彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/08/27
  • メディア: 文庫

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自分は、死ぬところに向かって生きている [日本(人)]

  戦国時代なり江戸時代の場合は、現代のように医学というものが発達していないから、死ぬ人が多い。

~中略~
だから当然感覚的に、
(人間はいつか死ぬものだ・・・・)
ということがわかっているわけですね。

  ところがいまは寿命が延びて、なかなか死ななくなったということは結構だけれども、
人間は死ぬということをかんがえなくなっちゃったわけだ。

池波 正太郎 (著), 柳下 要司郎 (編集)
新編 男の作法―作品対照版
サンマーク出版 (2004/05)
P232

新編 男の作法―作品対照版

新編 男の作法―作品対照版

  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2004/05/01
  • メディア: 単行本

高野山 大門

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つながりの喪失 [日本(人)]

 言うまでもなく、私は周りの世界につながっているためには、見たもの、聞いたこと、喋ったことを記憶しており、ここが何処で、いまは何時なのかなど見当がついていなければなりません。
このつながりの喪失が、認知症の人に「不安」という根源的情動を抱かせることになります。怒りや妄想などは、存在を脅かすその不安が形を変えたもののように見えます。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P7

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/15
  • メディア: 新書

 

DSC_2829 (Small).JPG立久恵峡温泉

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この人民ありてこの政治あるなり [日本(人)]

  愚民を支配するには、とても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。
西洋の諺に愚民の上に苛き政府ありとはこのことなり。
この政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。

福沢 諭吉 (著)
学問のすすめ
岩波書店; 改版版 (1978/01)
P18 学問のすゝめ 初編

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

  • 作者: 福沢 諭吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1978/01/01
  • メディア: 文庫


-ad342.jpg 壇上伽藍 金堂 高野山 

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記者クラブというシステム [日本(人)]

 記者クラブメディアによる報道のおかしさは、東日本大震災前から常に感じてきた。当局どおりに、まるでプレスリリースのような記事をほとんどそのまま書いてしまう。
よく言われるが、「これでは大本営発表と一緒ではないか」と感じる場面があった。
 その典型が、小沢一郎氏が民主党の代表を務めていた時代の西松事件だ。~中略~ その後、大手新聞をはじめとする全メディアが一斉に小沢氏をバッシングし始めた。
 小沢氏は逮捕も起訴もされていないのに、すでに有罪が確定しているかのような記事が洪水のように流れた。
~中略~ 当局は「新自由主義経済の象徴」であるホリエンモンをスケープゴートにした。そして西松事件のときと同じように、東京地検特捜部の情報をそのままリークしてホリエモンバッシングに奔走したのだ。

「本当のこと」を伝えない日本の新聞
マーティン・ファクラー (著)
双葉社 (2012/7/4)
P75

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

  • 作者: マーティン・ファクラー
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2012/07/04
  • メディア: 新書

 

DSC_9747 (Small).JPG平山温泉

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「甘え」今昔 [日本(人)]

P288
 すなわち甘えはまず一義的には感情である。この感情は欲求的性格をもち、その根底に本能的なものが存在する。

P292
 日本では依存的な人間関係が社会的規範の中に取り入れられているのに、欧米ではそれを締め出しているために、前者では甘えが発達し後者では発達しなかったというものである。

「甘え」の構造 [増補普及版]
土居 健郎 (著)
弘文堂; 増補普及版 (2007/5/15)

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

  • 作者: 土居 健郎
  • 出版社/メーカー: 弘文堂
  • 発売日: 2007/05/15
  • メディア: 単行本

 

IMG_3873 (Small).JPG高松

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祖霊信仰 [日本(人)]

  弘い世界の中でも、我々日本人の来世観だけは、少しばかりよその民族とは異なって居た。
もとは盆彼岸の好い季節毎に、必ず帰って来て古い由緒の人たちと、飲食談話を共にし得ることを、信じて世を去る者が多かっただけで無く、常の日も故郷の山々の上から、次の代の住民の幸福をじっと見守って居ることが出来たやうに、大祓の祝詞などにははつきりと書き伝へて居る。
乃ち雲はいつまでもこの愛する郷土を離れてしまふことが出来なかったのである
「遠野」序文

柳田 国男 (著)
遠野物語―付・遠野物語拾遺
角川書店; 新版 (2004/05)
P229

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2004/05/26
  • メディア: 文庫

 

-67be5.jpg信濃美術館・東山魁夷館
タグ:柳田 国男
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ナショナリズム [日本(人)]

 国家は、それが成立すべき内的外的要求により成立発展してきた。日本には外的要求がほとんどなかった。
~中略~
しかし、現在はもう外的要求は全て出揃っている。日本人がそれを知らない、知ろうとしないだけである。
~中略~
現在の時点はまさに日本人に、わたしたちの持っているナショナリズムが―いやナショナリズムを欠いているということが―どれほど世界史的に見て特殊なものか、現在あるべきナショナリズムとしてはなにが欠けているか、どうすればわたしたちが本当の、あるべきナショナリズムを身につけられるのかを、まともに考察すべきことを要求しているのである。

会田 雄次 (著)
日本人の意識構造―風土・歴史・社会 (講談社現代新書 293)
講談社 (1972/01)
P214

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日本人の誇り [日本(人)]

  その夜、私はいろいろ(住人注;アメリカ人が欲しがって考案し、注文し、手に入れて満足する、およそ日本の美意識や伝統とはかけ離れている、日本風の工芸品を売ること)考えつづけて、眠れませんでした。緑や金色のあくどい花瓶や、安い漆塗りの箱や、花簪をさした女の笑顔の絵のついた扇を好む大衆に比べれば、芸術的な眼のある人は数える程しかないでしょう。
「でも、もし日本が、その芸術的な標準を下げてしまったら、日本は世界に向かって、何を求めたらよいでしょうか。今、日本が持っているものや、今の日本の姿は、その理想と誇りとから生まれ出た物であり、高いのぞみも技倆も礼儀作法も、みなこの二つの言葉にたたみこまれているのではないでしょうか」と、
溜息まじりに、独り言をいったことでした。

杉本 鉞子 (著), 大岩 美代 (翻訳)
武士の娘
筑摩書房 (1994/01)
P237

武士の娘 (ちくま文庫)

武士の娘 (ちくま文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/01/01
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-69edf.jpg室生

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運命を受け入れる [日本(人)]

 日本人が肉食をするようになりましてから、西の世界から久しくわたくしどもをきりはなしていた伝統の壁も、随分と打ちこわされました。
そして、こうした急激な変化には、大きな代償が支払われたのでございます。が、これもいたし方ないことでしょう。
御維新後は、大勢の武士が、それまで扶持されてまいりました制度からきりはなされ、一朝にして零落してしまいました。
そればかりか、金銭にかかわらないことを根強く教えられた武士達は、当世には全く水を離れた魚同様でございました。この人々のうちには、年若く青雲の志に燃えて一旗挙げようとした方も多勢ございましたが、世に申す武士の商法で、失敗だらけでございました。
 戸田さんという方も、そういう中のお一人でありました。

~中略~
 この方は、過去の武士を代表していられた方です。今は迎えられそうもない、古い教養の外には、この新しい世代に、何の捧げるものをも持ちあわせていない故に、不運を静かに受けて、うらぶれの身を生きぬかれたのでございます。
こうした人々もまた、皆、英雄ではございますまいか。

杉本 鉞子 (著), 大岩 美代 (翻訳)
武士の娘
筑摩書房 (1994/01)
P42

武士の娘 (ちくま文庫)

武士の娘 (ちくま文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/01/01
  • メディア: 文庫

 

2181785興福寺
タグ:杉本 鉞子
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大阪人 [日本(人)]

 一つのテーブルに、四つのシートがある喫茶店でのことだ。
 恋人なり友人同士が、その二つに座を占めたところで、空いている他の二つのイスにはたれもすわらない。ちょうど領海件のように、かれらに一種の準占有権がみとめられているようである。
 もっとも、国法や自治体の条例で保護されている権利ではないから、ずけりとすわりこむ人物があらわれた場合には、何人も撤去を要求することはできない。
ところが、大阪では、おうおう、平然とそのシートにすわりこむオッサンがあらわれる。コーヒーを注文する。
ひとりでは退屈だから、なんとなくラジオでもきくような気安さで、むかいの恋人同士の会話に身を入れてきいていたりする。 やりきれない無神経さである。
 旅行の機会の多い人なら、なんどか実見されたに相違ない。車内の空気をひとりじめにしている大阪の観光団の喧噪さだ。~中略~
 べつに国法に触れるわけでもないから構わないようなものだが、車内には他の乗客もいる。彼らの神経や感情はまるで無視されているのである。

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P134

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

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不毛な国会 [日本(人)]

P132
 無駄な会議こそ社会人生活最大のタイムコストである。この本を読んでいるあなたも、さまざまな場面で「この会議は無駄だなあ」と思うことがあるかもしれない。  その典型が国会だ。会議は開いてはいるものの、そこでのやりとりで国益のために生産的なものはほとんど生まれないからだ。
~中略~
現在の自民公明連立与党のように、両院で与党が安定的な過半数を持っている場合、法案が国会に提出されたときはすでに与党内審議を終えているため、基本的に議論は出尽くしており、与党は賛成で固まっている。そのため国会での審議で、賛否も内容もほとんど変わることはない。つまり、国会とは結論がすでに出ているにもかかわらず、時間を議論に費やしたことを証拠として残すためだけに行なわれる会議なのだ。そこに、議員の相当なタイムコストが費やされている。ちなみに、議員は一人当たりにつき4億円ほどの国費が投入されている。誰もが最悪に無駄だと感じるだろう。
 与党内審議にも政府内の議論にも参画できない野党にとっては、唯一の見せ場が国会の委員会・本会議での政府与党追求である。
そのため、野党にとっては国会の審議ほど重要な見せ場はないが、えてして国益の追求より、与党議員や閣僚のスキャンダル追及や自分の選挙区への「頑張っています」アピールの場になる。そのため、まじめな与党議員や閣僚にとって国会での時間浪費はたまったものではない。

P134
 もっと悲惨なのは閣僚である。両院合わせて月曜から金曜までほぼ終日委員会に縛りつけられ、いろんな質問に答えないといけない。ミスを犯さないように答弁のすりあわせもやるので、委員会開催中以外にも相当な時間が早朝から深夜まで費やされる。こうやって日本の省庁のトップの貴重な時間が失われていき、官僚主導になってしまう。
野党による与党追求の専売特許的謳い文句は、「○○大臣よ!あなたは政治主導ではなく官僚主導になっている。リーダーシップが足りない!」だが、皮肉なことに野党の質問こそが、大臣たちが省内でリーダーシップを発揮したり、政策を考えたりする時間やエネルギーを奪っているのだ。
 政治ニュースで、たとえば「この法案は70時間審議されました」などと言われているが、その70時間には、その法案に関係ない質疑や「お前、この前の審議聞いていなかったのか?」と言いたくなるような繰りかえしの同じ質疑がたくさん含まれているケースが多い。審議時間の長短にあまり意味はないのだ。

頭に来てもアホとは戦うな! 人間関係を思い通りにし、最高のパフォーマンスを実現する方法
田村耕太郎 (著)
朝日新聞出版 (2014/7/8)

頭に来てもアホとは戦うな! 人間関係を思い通りにし、最高のパフォーマンスを実現する方法

頭に来てもアホとは戦うな! 人間関係を思い通りにし、最高のパフォーマンスを実現する方法

  • 作者: 田村耕太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/07/08
  • メディア: 単行本

 DSC_4357 (Small).JPG宇佐神宮


タグ:田村耕太郎
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日本の意志決定 [日本(人)]

実際、江戸時代の大名家における政治というのは家老や用人がおこなっていた。殿様が政治に直接たずさわるのは、近世のごく初期にかぎられていた。家老たちが、
―御用部屋

 という部屋におり、これが意志決定機関になっていた。明治以前、日本人が「政府」と言った場合、この家老たちが会議している御用部屋のことだけを指す場合が多かった。
 江戸時代には、この家老会議がすべてを決定し、
「下々、評議あい済みてのち、様子委細を主人に告ぐ」(家訓)
 殿様には「こういう決定が下りました」と事後に報告がなされるものであった。
 この部屋の会議は、密室といってよく、家老と用人・諸奉行が、頭を突き合わせて密談をした。
人事の話になると、門閥の家老たちだけになって、冬などは火鉢を置き、声を出さぬよう、火鉢の灰のうえに名前を書いて、また、ぱぱっと消すというようなことをして、密室で人事をきめた。
 ときどき、時代劇に、藩士が一堂に会して、会議している場面が出てくるが、江戸時代の藩にああいうものはない。これから藩が取りつぶされる、というような異常事態でもないかぎり、なかった。
日本人が、大会議場で「衆議」を尽くし、話し合う習慣は、中世の寺院や、惣村にはみられたが、近世武士の世界にはない。そのかわりにあるのが、
―稟議書
 である。笠谷和比古氏などが研究されているが、担当者から起案が上がり、判子が増えていき、取締役会で決定される姿は、江戸時代の藩のなかで生まれた。

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)
P208


殿様の通信簿 (新潮文庫)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

  • 作者: 道史, 磯田
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/09/30
  • メディア: 文庫

 


DSC_1763 (Small).JPG


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日本のクリスマス [日本(人)]

 日本人にとって、すべての不幸はガラス越しなのだ。「かわいそうねぇ」と同情する方は、なんの痛みも、寒さも、空腹も感じない。
 私は幼稚園からキリスト教の学校に入れられたので、クリスマスというのは、半日、断食をするという厳しい行事をする日だった。
 日本の子供たちは、クリスマスにはサンタクロースや両親から何かをもらうものだと思っているが、私たちは、クリスマスには、自分の身辺の貧しい家族に何かを贈る日だと、外国人の修道女に教わった。 それも自分の家に有り余っている何かをあげるのではなく、その日だけは、温かいスープを自分の家で飲むのは止めて、その中身を鍋ごと、近所の貧しい家庭に届ける。或いは昔のことだから、家には暖炉があって、普段の日はそこに赤々と薪をもやしているのだが、クリスマスの日だけはそれを止めて、自分たちは寒い思いをし、その日焚く分の薪を、ふだんは凍えている家族に届けるのが、ほんとうのクリスマスだと習ったのである。

人生の原則
曾野 綾子 (著)
河出書房新社 (2013/1/9)
P34

人生の原則

人生の原則

  • 作者: 曾野 綾子
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2013/01/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

 

DSC_5299 (Small).JPG

 

 

 

 

 

 

 北九州市小倉北区

 

 


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播州人 [日本(人)]

 時代小説の中で、兵庫県とくに播州をもし除いたとすれば、ちょっとこまるのでないかと思う。この県は、上方に隣接していながら、じつに壮快な人物を多く出している土地だからである。
 播州出身の英雄豪傑を思いつくままにあげると、別所長治、黒田如水、後藤又兵衛、母里太兵衛、宮本武蔵、大石内蔵助ほか赤城浪士、といった具合で、極端にいえば、かれら播州人が、日本の男性の理想像を作ってきたようなものであった。播州平野には、そういう風土的な秘密があるのだろうか。
 足利時代には、この土地は、赤松家の所領だった。足利の大名の中でも、赤松氏の武士集団は、主従関係がもっとも緊密で、戦国時代の三河徳川家に比することができる。
 その赤松氏が、戦国時代には多くの分家に分立し、そのなかで三木の別所家がもっとも栄えた。別所長治の代になって秀吉に亡ぼされたが、その二年にわたる三木の籠城戦は、日本戦史のなかでもその美しさの点で白眉とされていい。裏切りもなく、混乱もなく、整然と戦い、食尽きて開城した。開城のとき、長治は秀吉に対して城兵の命乞いをし、その条件として別所一族は自殺する、と申し出、許されて屠服した。
戦国時代の豪族には、自分の部下の命に代わるという犠牲的な精神はほとんどみられなかっただけに、私は「別所記」をよむたびに異様な感動にうたれる。
播州には、男の清潔さと潔癖さを育てるなにかがあったのだろうか。この精神の系列は、徳川時代に入って赤城浪士のものとなっている。
 後藤又兵衛の家は、たしか、この別所家の支族で、かれの父はもと長治に仕えていたし、伯父は三木籠城戦に加わった。宮本武蔵の生母は、別所滅亡後、山林にかくれた一族で別所林治(しげはる)という者の娘である。この二人の男性は、血族的にも播州武士の正系といっていい。
 黒田官兵衛如水は、はじめ播州姫路の城主小寺政職(まさもと)につかえた。小寺家も、別所の血族で、この籠城戦には別所方についた。
 家老であった官兵衛のみは反対し、ついに秀吉のもとに走って、播州攻略の参謀になった。
官兵衛が豊臣家の大名になったとき、多くの別所の残党を召しかかえている。
 黒田家はのち、筑前福岡五十余万石の領主となり、その男性的な家風は、いまも「黒田節」を通して知られている。「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を、飲みとるほどに」という歌詞は、いわば播州から起ったといっていい。~略
(昭和37年3月)


司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P125


司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 





DSC_0389 (Small).JPG
姫路城

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