アンチエージング [雑学]
ここに紹介しただけでも、DNAの損傷あり、活性酸素あり、テロメアあり、カロリー摂取あり。ほかにも、アポトーシスあり、ストレスあり、タンパクの異常あり、と、老化の原因は実にさまざまです。それらが重なり合った現象が老化の本態です。
老化研究が進み、いろいろなことがわかってきていますが、すべてを防ぐなどということは絶対にできないことです。がんのところで述べますが、がんを撲滅するのが不可能である、というのと同じ意味で、老化をなくす、ということは不可能です。
もちろん、ある程度、進行をおさえることは可能でしょう。それが、ご存じアンチエージングです。
TVコマーシャルでもしょっちゅうやっていますし、クリニックもたくさんありますから、相当な需要がありそうです。アンチエージングに関係する学会に講演で呼ばれて行ったら、ミニスカートのおねえちゃんが外車を売っててびっくるしたことがありますから、きっとたくさん儲けてる先生もおられるのでしょう。
もちろん、活性酸素を減らすなど、老化対策という意味だけでなく、健康のためにやったほうがいいだろうということもあります。しかし、老化はある意味で生理的なかていでもあるのです。
アンチエージングをやめろとは言いませんが、大枚をはたいている方は、そのことをふまえて、一度たちどまって考えてみれれてはどうでしょう。
自慢じゃやりませんが、私は毛髪が不自由です。 ~中略~
が、ある日、ふと思ったのです。いつまで続けるのか、と。そして、こんなことをしていいことがあるのか、と。抜け毛はある程度は防げても、着実に毛は減っていきます。主観的には抜け毛が減ったといっても、客観的にはハゲは着実に進行しているのです。~中略~
育毛剤だけでなく、アンチエージング全般に似たようなことが言えるのではないかという気がします。我が国は、高齢「化」社会では、すでに超高齢社会になっています。
お年寄りが健康に生きる、というのは、もちろん大事なことです。でも、アンチエージングがもてはやされる社会というのは、必ずしも健康的ではないように思います。
こわいもの知らずの病理学講義
仲野徹 (著)
晶文社 (2017/9/19)
P098
立山 [雑学]
御師の村は、立山にふたつある。岩峅寺(いわくらじ)と芦峅寺(あしくらじ)である。
峅(くら)という異様な文字は、漢字ではなく日本製の文字で、おそらく修験者が考案したものであろう。ある種の地形をさす。
これが大和の大峰修験の領域であった大台ケ原などにゆくと、大蛇嵓(だいじゃぐら)といったふうに、嵓(くら)という文字があてられる。これも日本製である。ある種の地形とは、おそらくビルのように大きい断崖にはさまれた谷間をさすにちがいない。
中世の修験者たちはこういう地形を神聖視し、とくにくらとよんだかとおもわれる。
修験道は、七世紀に出た役(えん)ノ小角(おずね)がそれをはじめた。
かれはやたらと山岳によじのぼった。好んで高山に登るということを、役ノ小角の同時代のどの民族もまだその例をもっていないのではないか。
人間にとって山は狩猟か、木を得るか、あるいは食料の採集のために存在したのだが、 ただ山に登るためにそれを登るという人間のあたらしい行動世界をひらいたのは、おそらく世界で役ノ小角が最初ではないかとおもわれる。
かれはしきりに日本中の高山に登ったが、しかし立山には登らなかった。奈良時代に入っても立山の頂上をきわめたという史的確証は得られないらしい。
平安初期になって、ようやく出た。僧名を慈興と名乗る佐伯有若(さえきのわりわか)という人物で、かれが発心し、はじめて登った。
おそらく原生林を斧でもって伐りひらきながら、幾夜もかさねてよじのぼったにちがいなく、神秘的な恐怖や感動をふんだんに味わったことであろう。
この人物が、立山御師の祖である。
街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P119
大台ヶ原山; 奈良県; 大蛇嵓;
食費を制する者は家計を制する [雑学]
自分の生活習慣や消費行動を変えるというのは、なかなか難しいことだと思います。
そんな時、私はまず家計の中でひとつの品目だけ意識して節約してみてください」とお伝えしています。それをこころがけるだけでも、ずいぶん家計が改善される方が多いのです。
特に、食費をコントロールできるようになると、家計が大きく変わってくるな、とおいうのが、多くの方にアドバイスさせていただいた中で実感することです。
「食費を制する者は家計を制する」といっても過言ではありません。
「貧乏老後」に泣く人、「安心老後」で笑う人
横山 光昭 (著)
PHP研究所 (2015/10/3)
P144
サバ [雑学]
サケと同様に、サバも日本人にとってなじみ深い魚です。しかし、図17のように一九八〇年代以降、漁獲量が大きく減少しています。
海洋環境の変動、小型魚の獲りすぎなどが要因と言われ、脂の乗った大型のサバが獲れなくなっています。
それを埋め合わせるため、日本はノルウェーからサバを大量に輸入していました。スーパーで売られている塩サバやしめサバなども、ノルウェー産が圧巻。国内産より脂の乗りが良いノルウェーのサバを好んで買う消費者も多くなりました。
しかし、二〇〇四年までは年間15万トン程度で安定していた輸入が、最近は5~6万トン程度まで激減しています。世界中でノルウェーサバの人気が高まり、中国やロシア、東欧諸国への輸出が急拡大したためです。
日本人が知らない漁業の大問題
佐野 雅昭 (著)
新潮社 (2015/3/14)
P52
炭焼小五郎 [雑学]
炭焼長者の話は、すでに新聞にも出したのだから、できるだけ簡単に、その諸国に共通の点のみを列挙すると、第一には極めて貧賤なる若者が、山中で一人炭を焼いていたことである。
豊後においては男の名を小五郎と言い、安芸の加茂郡の盆踊りにおいても、その通りに歌っている。すなわち、
筑紫豊後は臼杵の城下
藁で髪ゆた炭焼き小ごろ
なる者である。
第二には都からの貴族の娘が、かねて信仰する観世音のお告げによって、はるばると押しかけ嫁にやってくる。姫の名がもし伝わっていれば、玉世か玉屋か必ず玉の字がついている。容貌醜くして良縁がなかったからと言い、あるいは痣(あざ)があったのが結婚をしてからなくなったなどと言うのは、いずれも後の説明かと思われる。
第三には炭焼きは花嫁から、小判または砂金を貰って、市へ買い物に行く道すがら、水鳥を見つけてそれに黄金を投げつける。それがこの物語の一つの山である。
おしは舞い立つ小判は沈む
とあって、鳥は鴛鴦(おしどり)でありあるいは鴨であり鷺鶴であることもあって一定せぬが、とにかく必ず水鳥で、その場所の池または淵が、故跡となってしばしば長く遺っている。
第四の点はすなわち愉快なる発見である。なにゆえに大切な黄金を投げ棄てたかと戒められると、あれがそのような宝であるのか、
あんな小石が宝になれば
わしが炭焼く谷々に
およそ小笊で山ほど御座る
と言って、それを拾ってきてすぐにするすると長者になってしまう。
右の4つの要点のうち、少なくとも三つまでを具備した話が、北は津軽の岩木山の麓から、南は大隅半島の、佐多からさして遠くない鹿屋の大窪村にわたって、自分の知る限りでもすでに十幾つかの例を数え、さらに南に進んでは沖縄の諸島、ことには宮古島の一隅にまで、若干の変化をもって、疑いもなき類話を留めているのである。
海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P167
三輪山 [雑学]
ついでながら、三輪山は、山全体を神体とする神社神道における最古の形式を遺している。こういうものを甘南備山(かんなびやま)という。
出雲にも甘南備山が多い。「出雲神賀詞」にはカンナビの語がやたらと出る。
ツングースも蒙古人も山を崇ぶが、そこまで飛躍せずとも、出雲民族の信仰の特徴であるといえるだろう。
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P231
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)
- 作者: 遼太郎, 司馬
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
都井岬 [雑学]
それから自分は都井(とい)の宮浦に上陸して、牧の野馬を見に岬の鼻までいった。
高鍋藩の経営した、これもいたって古い海の牧場で、いわゆる福島馬の故郷である。今や馬種の改良が盛んに行なわれている。御崎(おさき)社内の野生蘇鉄とともに、「この山の猪捕るべからず」の制札をもって、天然記念物の野猪は保存せられているが、人作の福島馬のみはえらい虐待で、社はことごとく二歳になる前に、牧から追われて試情馬などの浅ましい生活を送っており、これに代わって異国の種馬が、来たって極端の幸福を味わっている。
これから峠をまた一つ越えると、福島の町が見える。すなわち中世の櫛間院の地であって、クシはすなわちまた岬の古語である。
入海を隔てて志布志の蒲葵島が美しく、その向こうには大隅の山が見える。大隅のスミはやはりまた、シマのことだろうと考えられた。
海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P38
火と宇佐の大神 [雑学]
「遠野物語」の中には、深山無人の地に入って、黄金の樋をみたという話があるが、それが火と関係あるか否かはまだ確実でない。しかし少なくとも火神の本原が太陽であったことだけは、日と火の声の同じい点からでもこれを推測し得るかと思う。日本には火山は多いが、わが民族の火のはじめはこれに発したのではなかったらしい。
天の大神の御子が別雷であって、後再び空に帰りたまうという山城の賀茂、または播磨の目一箇(まひとつ)の神の神話は、この国のプロメトイスが霹靂神であったことを示している。
宇佐の旧伝が同じく玉依姫を説き、しきりにまた若宮の相続を重んずるは、本来天火の保存が信仰の中心をなしていた結果ではなかったか。
~中略~
これを要するに炭焼き小五郎の物語の起源が、もし自分の想像するごとく、宇佐の大神の最も古い神話であったとすれば、ここにはじめて小倉の峰の菱形池の畔に、鍛冶の翁が神と顕れた理由もわかり、西に隣した筑前竈門山の姫神が、八幡の御伯母君とまで信じ伝えられた事情が、やや明らかになってくるのである。
いわゆる父なくして生まれたまう別雷の神の古伝は、いたって僅少の変化をもって、最も広く国内に分布している。
神話は本来各地方の信仰にねざしたもので、そのお互いに相いれざるところあるはむしろ自然であるにもかかわらず、日を最高の女神とする神代の記録の、これほど大いなる統一の力をもってするも、なおおおい尽くすことを得なかった一群の古い伝承が、特に火の精の相続に関して、今なお著しい一致を示していることは、はたして何事を意味するのであろうか。
播磨の古風土記の一例において、父の御神を天目一箇命と伝えてすなわち鍛冶の祖神の名と同じであったことは、おそらくはこの神話を大切に保存していた階級か、昔の金屋であったと認むべき一つの根拠であろう。火の霊異に通じたる彼らは、日をもって火の根源とする思想と、いかずちと称する若い勇ましい神が最初の火を天より携えて、人間の最も貞淑なる者の手に、お渡しなされたという信仰を、持ち伝えかつ流布せしむるに適していたに相違ない。
宇佐は決してこの種の神話の独占者ではなかったけれども、かの宮の神の火は何か隠れたる事情あって、特に宏大なる恩沢を金属工芸の徒にほどこしたために、彼らをして長くその伝説を愛護せしむるにいたったので、炭焼長者が豊後で生まれ、後に全国の旅をして、多くの田舎に仮の遺跡を留めておいてくれなかったなら、ひとり八幡神社の今日の盛況の、根本の理由が説明しがたくなるのみでなく、われわれの高祖の火の哲学は、永遠に不明に帰してしまったかも知れない。
海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P199
宇佐神宮
十津川 [雑学]
クスノキ [雑学]
古来、樟脳の原料として、盛んに植林されたという。香木であることから仏像彫刻材にも用いられた。
また、害虫に強く材質が固く、しかも巨木になることから、船材としても貴重な木材だった。
「古事記」の上の巻に次ぎのようなくだりがある。「次に生める神の名は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、亦の名は天鳥船(あめのとりふね)と謂ふ」
船材としてクスノキを使っていたことを示す記述は、ほかにも「日本書紀」「日本霊異記」「播磨国風土記」などにも見られる。
古来、最も尊ばれた樹種がクスノキだった。
自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳 (著)
平凡社 (2001/01)
P184
自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)
- 作者: 加藤 則芳
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2001/01/01
- メディア: 単行本
与那国 [雑学]
与那国では平家の一族の末という部落があって、今なお在来の島人の子孫たちと対立し、平和の競争を続けていると言った人があるが、はたしてそうであろうか。
平家は北に四百里(約一六〇〇キロ)をへだてた南九州の山村から、島では川辺郡の十島を始めとして、どこへも上陸して遺蹟を留めている。
モリは社地または霊山を意味する普通名詞であるが、これを祀る島ではことごとく、行(ゆき)の盛友(もりとも)の盛などの神歌を存し、さらに系図ができ、また後裔が栄えていて、系図を否認すればおそらくは決闘を申しこまれる。
海は一続きであるから壇の浦の船の数だけは、落人の漂着した例もあり得るのであるがであるが、実はその後の六、七百年も、彼らをして優美なる由緒を保存せしめるほどに、島の生活は無事単調ではなかった。
たとえば石垣島にあっては、赤蜂本瓦が井底の痴蛙であったために、宮古の仲宗根豊見親は、沖縄の船軍をしてこの島に攻め入り、各村の旧住民を制御してこれをただの百姓にしてしまった。すなわち石垣のユカルピト(優越階級)は、少なくともその血の三分の二まで、宮古系になったのである。
これに反して与那国の島では、宮古出身と伝うる酋長の鬼虎が、あまりに暴虐を振るまったために、ついに石垣からの遠征を受けて、たちまち全村の屈服となってしまった。 ~中略~
こうした長い年月の交通往来を重ねているうちに、人の血はいよいよ混淆(こんこう)して、恨んだ者も恨まれた者も、ただ忘却の一体となってしまったことは、あたかもこの漫々たる大海の波濤のごとく、永古に残るものとては、ひとり底知れぬ潮の力のみであった。
海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P135
波照間島 [雑学]
波照間島は石垣から西南、なお十一里あまりの海上に孤立している。これから先はただ茫々たる太平洋で、しいて隣と言えば台湾があるばかりだが、しかもここえくればさらにまた、パェパトローの島を談ずるそうである。
パエは南のことで、われわれが南風をハエと呼ぶに同じく、パトローはすなわち波照間の今の土音である。
この波照間の南の沖に今一つ、税吏のいまだ知っておらぬ極楽の島が、浪に隠れてあるものと、かの島の人は信じていた。
昔、百姓の年貢が堪えがたく重かった時、この島のヤクアカマリという者、これを救わんと思いいたって、あまねく洋中を漕ぎ求めて、ついにその島を見出し、わが島にちなんでこれを南波照間と名づけたと伝えている。
徐福が大帝の命をうけたのとはことかわり、これはこれは深夜に数十人の老幼男女を船に乗せて、ひそかにその縹渺の国へ移住してしまった。
その折りにただ一人の女が、家に鍋を忘れて取りにもどっている間に、夜が明けかかったのでその船は出で去った。鍋掻(なべかき)という地はその故跡ということになっている。~中略~
沖縄でも南に大海を望む具志頭(ぐしかみ)村の銀河原に、俊寛僧都同系の悲惨な話があって、磨小塘(うすおども)の遺跡はまた南の果ての島の鍋掻と対している。昔この里に住む夫婦の者、家計の不如意を愁(うれ)えている折から、一人ある僕、釣りに出でて颶風にあい、珍しい島に上がって数月を過ごした後、ある日南の風に乗じて帰ってきた。
こんな結構な島があります、お伴してまいりましょうと、五穀の種やいろいろの道具とともに、すでに女房を乗せおわってから、いつわって主人に向かって、石臼を持ってきてくれよと頼んだ。
主人は急ぎもどって臼を持って出てみると、もうその小船は沖中に漕ぎ出していて、追いつくこともできなかった。~中略~
しかしこの話は一方に、「今昔物語」の土佐の妹背島の話にも似たところがある。
船で田植に行く幡多郡の海岸の農夫、苗と兄妹の子供とを船に乗せ、ちょっと家にもどっているうちに風が吹いて、船は沖に出てしまった。
二人ばかりその島に漂着して、せん方なくその苗を植えて、後に同胞で夫婦になったというのである。
台湾の生蕃にはほとんど各蕃社ごとに、これに似た兄妹漂流の事件をもって、部落の始めとする口碑がある。
神の怒りの大水で、臼に乗っていた二人のほかは皆死んだ。その臼のすみに挟まっていた穀物の種をまいて、新たに次の世の親となったと伝えているのである。
波照間島の人類の始めも、やはりまた災後の兄弟で、神の恵みによって子孫をもうけたち伝えられる。ただしここでは大水のかわりに火の雨が降り、臼のかわりに白金の鍋も要するに皆、ノアの箱舟に他ならぬ。
海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P123
寺田虎彦 [雑学]
寺田(住人注;寺田虎彦)が、ここまで防災に熱心であったのは、彼が、津波常襲地である高知の出身であったことと無関係ではない。
なかでも「種崎」という高知市街に近い海岸の地が、彼の思想形成に大きくかかわっているように思われる。
種崎は、坂本龍馬像のある観光地・桂浜から幅約三〇〇メートルの蒲戸湾口をはさんで向かい側にある風光明媚な砂浜である。
寺田は中学時代の一八九二(明治二五)年頃から、種崎へ海水浴に出かけた。~中略~
種崎は、寺田の原風景となっており、「海水震動」や「海鳴り」など、海の自然現象に関する科学的研究を行なう素地を作っている。
実は、この種崎こそが、高知市近郊でも、津波による最も悲惨な人的被害が見られた地であった。多感な寺田が、この地に長く滞在して、それを意識しなかったはずはなく、種崎が寺田の防災思想の母なる地となった、と、私はみている。
天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2014/11/21)
P58
天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)
- 作者: 磯田 道史
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2014/11/21
- メディア: 新書
宗教戦争 [雑学]
日本には本格的な宗教戦争などなかった。西暦で言えば六世紀にあたる時期の神仏崇拝論争による蘇我・物部の争いも、七世紀の律令国家建設過程で解決している。
日本のあらゆる仏教宗派は、聖徳太子崇拝では一致できる。
また、第十五代応神天皇を御祭神とする八幡大名神は、仏教を保護する八幡大菩薩でもある。イスラム教を守護するキリスト教の天使など、聞いたことがあるだろうか。
イスラム教は、新旧聖書とコーランを聖典として崇(あが)めるが、ユダヤ教は新約聖書の存在を認めない。もちろん、ユダヤ教もキリスト教もコーランを認めない。同じ神様を拝んでいるにもかかわらず、である。謹慎憎悪であろうか。
日本で最大の宗教戦争として石山合戦が挙げられるが、本願寺は端から勅願寺になったことを喜んでいるのである。天皇の権威により、自己の社会的地位が向上したことを喜ぶということは、その威光に服属するということなのである。天皇は政治の争いから超然としていた。
日本人だけが知らない「本当の世界史」
倉山 満 (著)
PHP研究所 (2016/4/3)
P103
日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか PHP文庫
- 作者: 倉山 満
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2016/04/08
- メディア: Kindle版
奥駈修験道 [雑学]
紀伊は木の国、山の国。
この半島を旅する者はみな、重畳と波打つ山々のはてしのない連なりに驚き、森の深さに気圧(けお)される。
だが、見晴るかす緑の山並みに目をこらすと、そのほとんどがスギ、ヒノキの人工林であることを知る。熊野川をはじめ豊かな水流は、いたるところ大きなダムによって寸断されている。
下流域は水量が減り、清らかだった流れが濁り、生態系が変わってしまった。
時代が変わり、拡大造林は時代から見放された。山と川に依拠して暮らす木の国の人々は、山から離れ川から離れた。造林とダムは土地にわずかな富をもたらし、山の文化を殺した。
熊野を古来、隠国(こもりく)という。隠国とは使者の隠れるところ。「日本書紀」によると、熊野はイザナミが祀られる黄泉の国であり、根の国だった。奈良、京の都の文化とは異質の文化をもつ謎の国だった。
~中略~
その表と裏を結ぶ山岳道がある。修験の道、奥駈(がけ)道である。紀伊半島の中央から少し東、背骨のように南北に横たわる全長一八〇キロに及ぶ大峰山脈の稜線伝いに、ける奥駈道はつけられている。
山脈の北の端が吉野、南の端が熊野である。その吉野と熊野に、それぞれ別々の修験道が発達した。一〇世紀ごろ、ふたつの修験道、生の国の修験道と死の国の修験道とが大峰山脈で結ばれた。
以来、大峰山脈縦走は奥駈修験道場として、修験道最高の行場となった。
自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳
(著)
平凡社 (2001/01)
P178
自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)
- 作者: 加藤 則芳
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2001/01/01
- メディア: 単行本
幡多 [雑学]
宿毛市から足摺岬、四万十市の四万十川流域にかけての地域を幡多といい、土佐や伊予とは一線を画した独自の文化を育んできた。サンフランシスコ講和条約を結んだ吉田茂の実父、竹内綱は宿毛出身の武士で戊辰戦争に参戦後、板垣退助、後藤象二郎らと自由民権運動の闘士として活躍。~中略~
また綱の長男で茂の兄、竹内明太郎は小松製作所の創設者で、日産自動車の前身、快進社を設立したほか、早稲田大学理工学部を創設するなど、工業立国・日本の礎を築いた。日本人離れした、ともいえる網や明太郎、茂のスケール感は、黒潮の通うこの土地の風土に起因しているのだろうか。
山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P136
コンコード―ソローの森 [雑学]
マサチューセッツ州コンコードはオークやメイプルなどの樹木に囲まれた美しい町だ。
~中略~
一七七五年、統治国イギリスの厳しい締めつけに反発し、愛国心の芽生えはじめた農民兵がイギリス軍と衝突したのがここコンコードだった。
中略~
大国アメリカ合衆国の夜明けを告げた町として、コンコードの名は一躍世界に知られることになった。
自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳
(著)
平凡社 (2001/01)
P113
自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)
- 作者: 加藤 則芳
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2001/01/01
- メディア: 単行本
宮沢賢治 [雑学]
宮沢賢治 「農民芸術概論綱要」のなかの「農民芸術の興隆」という一節
曽(か)つてわれらの師父たちは貧しいながら可成(かなり)楽しくいきてゐた
そこには芸術も宗教もあつた
いまわれらにはただ労働が生存があるばかりである。
宗教は疲れ近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教化芸術家とは親善若しくは美を独占し販(う)るものである
われらに贖(あがな)ふべき力もなく又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行きわれらの美をば作らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働をを燃やせ
ここにわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来つてわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
これは賢治は羅須地人協会という会を始めたときの文章です。建治は農業をしながら芸術を語り、宗教を語る。そういう高い理念をもった集団をつくったんですが、失敗に終わった。けれども理念は正しい。
梅原猛の授業 仏教
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2002/01)
P225
高野山 [雑学]
いや、かくいう高野山も実際のところ特別に選ばれた聖地であり、そこでは弘法大師が高野山金剛峯寺を建立するずっと以前から多くの山岳修行者がそれぞれ庵をつくって祈りを捧げた場所せあったことはたしかである。
そもそも弘法大師は金剛峯寺を建立する際に、丹生都比売(にうつひめ)を鎮守として祀ったと伝えられている。ここでもすでに神仏混淆である。
丹生都比売の起源は金剛峯寺が創建されるよりもさらに古く、もともと高野山一帯の地主神として崇拝の対象とされていたのだった。
高野山には根本大塔を中心とした壇上伽藍があるのだが、そこに丹生明神と高野明神を祀る神社(御社(みやしろ)があ堂々と並んでおり、しかも、弘法大師がその場所をもっとも重視したとなると、もともと真言密教と神道(女神崇拝)との間にはどこか通底するものがあったと考えざるをえない。
ところで、ちょっとわき道にそれるかもしれないが、この丹生都比売の「丹」はまた朱色を指すもので、おそらく精製すると水銀がとれる朱砂(しゅしゃ)(硫化水素)のことではないかといわれており、「丹生」となるとその鉱脈を意味するのではないかとされている(永江秀雄「水銀産地名「丹生」を追って」「金属と地名」。谷川健一著、三一書房、一九九八年、二五八頁、二六二頁、二六三頁)。
また、水銀は水の神との結びつきも強く、水源、水分信仰とかかわっているとの見方もある。
其の点では、大丹倉(おおにぐら)、丹倉(あかぐら)神社なども、水の神を祀るとともに、朱砂を含む大きな鉱脈がその背景にあると考えることができるであろう。
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P123
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/04/17
- メディア: 新書
紀伊山地の霊場と参詣道 [雑学]
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」というと、だいたい総称して「熊野古道」と呼ばれることが多いのだが、そこには熊野三山以外にも、奈良県の吉野・大峯(おおみね)、和歌山県の高野山などが含まれている。そして、日本有数の聖地、伊勢神宮と熊野三山とを結ぶ伊勢路が三重県を縦断しているのだから、もちろんその存在についても無視することはできない。
世界遺産とされたのは、そうした異なる信仰(神道、仏教、修験道など)が道によってそれぞれ意味深く結ばれている点を評価されてのことなのである。
たしかに「紀伊山地の霊場と参詣道」はいまでも神仏混淆のメッカで、神道、仏教、道教、修験道など、日本人の宗教を構成するあらゆる要素がそこに混在している。吉野一帯にも金峯山寺のみならず水分(みくまり)神社や金峯神社などがあるし、高野山には丹生都比売(にうつひめ)神社がある。奈良の天川大弁財天神社はまさに神仏混淆の地で、当然のように般若心経が読まれている。そこには神仏習合というような意識さえ存在していない。
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P20
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/04/17
- メディア: 新書
熊野 [雑学]
熊野には古代の歴史からはみ出てしまうものがいくらでもころがっている。しかも、それならそれで熊野はつねに歴史の外側にあったのかと思えば、それがまったく逆で、もっとも重要な場面になるとたちまち歴史の表面に浮かび上がってくるのである。
丸山 静は「熊野考」で次のように書いている。「たとえば、「保元(ほうげん)物語という本を読んでみる。すると、すぐに次のような記事が出てきて、それが気になりだす。
久寿(きゅうじゅ)二年(一一五五年)、熊野に参詣した鳥羽法皇は、「明年の秋のころかならず崩御なるべし。そののち世間手のうらを返すごとくなるべし」という、熊野本宮の託宣をこうむった。果たして翌保元元年の夏、法皇不豫になり、七月二日に逝くなった」。
熊野本宮の託宣? なぜ、この脈絡で熊野に出番が回ってくるのだろうか。ここで丸山も次のように問うことになる。わが国古代から中世への一大転換、未曽有の内乱の幕が切って落とされる。そんな重要な事件に熊野が「神の託宣」といったひどく神秘的な仕方で介入してくる。そこには何か必然があるのか、と。
そう、熊野は、特別な権力の集中する場所でもなければ、中央から隔離されたただの辺境の地でもなかった。それが伊勢谷高野山と一線を画すところである。ここは当初、精神史上もっともプリミティブな信仰の地にすぎなかった。だが、それゆえに熊野は、逆説的に、日本の歴史のなかで大きな位置を占めるようになったのかもしれない。
熊野の語源からして、「隠国(こもりく)」「隈(くま)」なども含めて、「籠もり」の地という響きがあるし、熊野とほぼ同意語とされる「牟婁(むろ)」にも「神奈備(かんなび)の御室(みむろ)」などと呼ばれるように、紳霊の籠もる聖なる山や森というニュアンスがこめられている。
E・R・ダッズは、古代ギリシャ文化の古層に「籠もり」(インキュベーション)の習俗をみたのだが、熊野でも同じようなことが行われていたといえないだろうか。
「籠もり」とは、神の加護を求めて寺社などに行き、そこで眠って夢のなかでお告げ(託宣)を得るという行為である。後述するデルフォイとアテネの関係のように、熊野もそれと似たかたちで中央となんらかの強い結びつきをもっていたのではないか。
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P36
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/04/17
- メディア: 新書
たくさんの細胞が、頑張って生きている [雑学]
P036
ほんとうに数えられたわけではないのですが、どの本を見ても、私たちの体はおよそ200種類にして約60兆個の細胞からできていると書いてあります。
何十年も前から200種類と書かれていますが、学問が進んでいろいろなことがわかってきているので、分け方にもよりますが、いまや250~300種類というのが正しいところでしょう。
細胞の数についてきちんと計算してみると、もっと少なくて37兆二千万個くらいではないか、という論文が出されたりしています。体重によっても違いますから、難しいのですが、おおよそ数十兆個、というところなのでしょう。少し意外な感じがするかもしれませんが、なんとそのうちの6割以上が赤血球です。
いろいろな状況に応じて、そんなにたくさんの細胞が、それぞれの役割をはたしながら、さらには協調して、できるだけ健康を保てるように一人一人の人間を形作っている思うと、なんだかものすごく不思議な気持ちになりませんか?
P037
細胞はかなりの頑張り屋さんです。我々が死にたくないと思うのを感じとって、というわけではないのですが、日々、いろいろなストレスや異常な条件にさらされても、なんとか生き延びようとします。
細胞にだっていろんなストレスがかかるのです。負担をかけられたり、刺激を与えられたり、兵糧攻めにされたり。いってみれば、いじめられているといったところでしょうか。
細胞たちは、そんな状況に適応しながら、なんとか生きていこうとするのですから、なかなかけなげなものです。 残念ながら、いつまでも耐えきれる細胞ばかりではありません。いろいろな刺激や状況に負けて死んでいく細胞もでてきます。
こわいもの知らずの病理学講義
仲野徹 (著)
晶文社 (2017/9/19)
御厨人窟 [雑学]
釣り師のサガ [雑学]
日本の正しい道楽旦那とは、時間と多少のお金をかけて、ある高みの道楽の世界に到達した人のことです。~中略~
振り返ると、初心者のときはどんな魚でも釣れればうれしいものです。こんな世界があったのかと感激するばかりです。そしてせっかく釣った大切な魚ですから、美味しく食べたいと思います。
こうして釣魚料理にはまっていくのです、
釣りは奥深い世界で、こんな段階では終わりません。つぎの欲望が目覚めてきます。「もっとおいしい魚を釣りたい、もっと高級魚を釣ってみたい」と熱望するのです。
~中略~
そうこうしているうちに、釣り師のサガでつぎの欲望がめばえてまいります。
つまり「デッカイ魚を釣りたい」という欲望です。デッカイ魚はその魚がいる場所に行かないと釣れません。これは沖釣りの真理です。
樋口正博
つり道楽
嵐山 光三郎 (著)
光文社 (2013/4/11)
P255
ネット検索能力 [雑学]
高齢者を含め多くの患者は、治療に関連した情報をインターネットを用いて探していることが多い。
米国では75%~80%の利用者が健康に関連する情報を検索している(3)。65歳以上の成人の約20%がインターネットを利用していて、その80%が健康に関連する情報を検索している。
さらに、高齢者の3分の1が治療を受けるかどうか考えるときに、ネット上の情報が大きく影響していると答えている(4)。
わが国の高齢者の医療リテラシーに関するデータは少ないが、おおよそ米国と似た状況と考えられる。
端的にいえば、ネット上の健康情報は、健康に関連した決定をするうえで重要なセカンドオピニオンの位置づけになっていると言える。
しかし、情報を検索する作業には、いくつかの難しい課題が含まれている。例えば、ネットで正しい情報を得るためには、正しい検索語を選択しなければならないし、得られた結果が適切かどうか判断したうえで、もう一度検索語を修正して、より見合った結果を選択できるように進めていかなければならない。
解釈も必要だし、適切なリンクを選択することも求められる。
医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者
大竹 文雄 (著), 平井 啓 (著)
東洋経済新報社 (2018/7/27)
P172
カワイイと思う仕掛け [雑学]
澤口 我々はミッキーマウスをなぜかわいいと思うか?というと、それも脳にカワイイと思うための仕掛けがあるからです。
哺乳類は子育てをするために、子どもをカワイイと思う仕掛けをもってるんです。
哺乳類の赤ちゃんの顔には共通した特徴があって、全体に丸くて、おでこが広くて、鼻が低くて小さくて、ほおがふっくらしている。いちばん目立つのは目ですね、絶対的に目の比率が大きい。こういう顔を見ると、思わず保護し世話を焼きたくなるように、遺伝的にプログラムされているんですよ。
だから目が大きくて顔のでかいミッキーマウスを「カワイイ」と思うんです。
平然と車内で化粧する脳
澤口 俊之 (著), 南 伸坊 (著)
扶桑社 (2000/09)
P215
蓑笠 [雑学]
いずれにしても祭りに携わる者の蓑笠は、決して南の島ばかりの奇風俗ではなかったので、おそらくは「月笠着る、八幡種播く、いでわれらは」と高く唱えて神を送ってきた時代よりも以前から、近くはわれわれの田舎の盆の月夜にいたるまで、神に代わって踊り舞う者の、必ず隠れ笠によって現世と遮断し、まずわが心霊を浄くかつ高くせんとした、素朴な信仰のはじめの形であるように思われます。
~中略~
もとよりノロと称する人間の女性が、かりに神を装うて出るのではありますが、信仰厚き者の笠の内の心持ちは、扮するというよりもむしろ成るという方が当たっていたようでありまして、かくのごとき精神作用にはまたコバの葉の力が多いのであります。
海南小記
柳田 国男
(著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P248
四国は尾根でつながっている [雑学]
街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか (朝日文庫)
- 作者: 司馬 遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2008/09/05
- メディア: 文庫
龍馬追跡に終止符を打った私たちは松山市を目指した。檮原町の中心地から松山市までは国道四四〇号を経由し、国道三三号で約二時間。山間を貫く高架やトンネルが舗装され、快適だ。山の中腹に小さな集落がいくつも点在している。
「あんな山奥にも家があるんだなぁ」と不思議そうにいう。
稲作を中心に生活が組み立てられる日本列島の農村は、川を軸に形成されている。川岸を上がると道があり稲田があり、畑があって山際に集落、そして森がある。山奥は野獣や山賊、天狗の領域だから、里人は恐れてめったに入らなかった。
ところが四国山間地においてはこの領域が度々、逆転するのだ。
「四国の山は尾根でつながっているので、尾根道を縦走できるという特徴があるんです」
と私は正面の山を眺めながら説明した。
尾根道が主要道で、尾根の枝道に沿って下ってゆくと集落があるのだ。
集落はおよそ山の中腹にあり、周りはかつて焼き畑が広がっていた。住民ははるか谷底の川まで降りることはなかったという。
つまり、人と情報の出入り口は川ではなく、尾根なのだ。
「いったい、どういうわけだんだね」としきりに首をひねっている。
「稲作に依存しない社会の姿なんですよ」と私は答えた。
焼き畑とは森を焼いて麦やアワ、ヒエ、ソバ、トウキビなどの穀物を育てる農業で、稲作よりも古く、アジアの熱帯雨林や照葉樹林で広く行われてきた。
「高知県と愛媛県境の山中では平成に入るまで続けられていたそうです」
「ほう・・・・」
「どうして川の側に住まなかったんだ?」
「四国山中はV字の深い谷なので午前中は霧がたまり、日照時間が短いんです。集落のある辺りまで上がると明るくて見晴らしがよく、気分がいいですよ。山々が波のように見えましてね、飛んで行ってしまいたくなるくらいです」
山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P123
土佐市 35番清滝寺
龍馬脱藩の道 [雑学]
文久二(一八六二)年三月二十四日、高地城下を出奔した龍馬は翌二十五日、檮原の志士、那須俊平、信吾邸に宿泊。翌二十六日、村内の宮野々番所、松ケ峠番所を抜け、四国カルスト西端の韮ケ峠を越えて伊予国へ脱藩した。私たちは龍馬の足取りを追い、那須父子邸から旧街道を辿った。
「龍馬脱藩の道」と記された標識が所々に立てられ、無言で道案内をしてくれる。車を走らせながら「昨夜、資料を見ていると茶や谷というところで、民俗学者の宮本常一氏が「土佐源氏」の聞き取りをしているようです。地図を見てみると茶や谷には龍馬脱藩の道も通っています」と報告すると、「それは面白そうじゃないか。思わぬ発見に出くわすかもしれんぞ」と氏は目を剥いた。
「土佐源氏」は宮本常一氏の代表作「忘れられた日本人」に収録される作品で、宮本氏が戦前、檮原の老人に取材した逸話を戦後発表したものだ。
山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P117
四国カルスト
最澄と空海 [雑学]
当初、空海と最澄は「一緒にやっていきましょう」と意気投合していた。しかし、まだ温かい交流が続いていた弘仁3年8月19日の書簡のなかで、最澄は「法華一乗の旨、真言と異なることなし」と言っていたが、実はこの時点で既に空海には認めがたい発言だったであろう。
空海にとっては、「真言密教は仏教のひとつではなく、仏教の全体ということになる」からである。
つまり最澄は、天台と真言との間には優劣を認めない「円密一致」(円とは円教=天台の法華一乗の教えのこと)の立場をとっていたので、真言密教といえども、経典類熟読すれば自ずと理解できると考えていたのである。
それに対して空海は、「仏法に顕密二教の別あり」として、真言ひとつを密教とし、天台は顕教(けんぎょう)のひとつとみなしていたのいである。
また、空海は密教を最高としながらも、僧侶としては小乗仏教の戒律も守るべきとする立場であったが、これに対して最澄は、「大乗仏教には、ただ大乗菩薩戒があればよい」とし、小乗の戒律を排除する立場であったという立場の違いもあった。
空海に出会った精神科医: その生き方・死に方に現代を問う
保坂 隆 (著)
大法輪閣 (2017/1/11)
P82