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救世観音像 [見仏]

殊に夢殿の秘仏救世観音像 に至っては、限りなき太子讃仰の念と、太子薨去(こうきょ)に対する万感をこめて痛惜やる方ない悲憤の余り、造顕せられた御像と拝察され、他の諸仏像とは全く違った精神雰囲気が御像を囲繞しているのを感ずる。
まるで太子の生御霊が鼓動をうって御像の中に籠り、救世の悲願に眼をらんらんとみひらき給うかに拝せられる。心ある者ならば、正目には仰ぎ見ることも畏しと感ぜられる筈であり、千余年の秘封を明治十七年に初めて開いたのがフェノロサという外国人であったという事であるが、これは外国人だからこそあえて為しえたというべきである。~中略~
作者が絶体絶命な気構えで一気にこの御像を作り上げ、しかも自分自身でさえ御像を凝視するのが恐ろしかったような不思議な状態を想見することが出来る。藤原時代に早くも秘仏としておん扉を固く閉じることに定められたという事のいわれが分かるような気がする。この御像にはあらゆる宗教的、芸術的約束を無視した、言わばただならぬものがあるのである。
(初出「婦人公論」昭和17年9月号)
高村光太郎

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P109
http://buzzmap.so-net.ne.jp/onoki/spot/32234

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丹霞焼仏 [見仏]

  九世紀の初めに唐に丹霞天然(住人注;たんか・てんねん)とよぶ禅僧がいた。ある寒い朝に蒔割りで木造の仏像を割り、それを燃やして身をあたためていた。
それを見た信者は驚いて、「もったいないことをしている」となじった。
天然和尚は、「なんの、あなた方が大切にしている舎利を取るために荼毘に附しているいる所だ」と答えた。
舎利とは八十才で入滅した釈尊の遺体をインドの風習として荼毘(=火葬)に附し、その遺骨を弟子どもが分けて、これを礼拝した。その遺骨のことを舎利というのである。
天然和尚は木仏像を焼いて舎利を取るのだと答えたところ、信者は、「木の仏を焼いても舎利は出ませんよ」という。
和尚はすかさず、「舎利の出ないような木のはしくれを焼いて何がもったいないか」と答えたという話がある。
~中略~
従来の礼拝の対象としての偶像は禅門ではさまで重要性を認めず、そのほかにもっと重要なことがあると説く。
たとえば、「自仏是真仏」というように考える自分または自分の心の完成が先決問題であり、仏像や仏画を拝んだり、経文を読んだりする様な従来の宗派の在り方には飽き足らなかったものにほかならない。
「直指人心、見性成仏」が最初であり、同時に最後の問題なのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P180




伊勢神宮 内宮 (109).JPG伊勢神宮 内宮

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奈良 [見仏]

 古今集的な美の現れが、京都であり、万葉の精神が、奈良・大和であるとすれば、私はむしろ、奈良・大和のほうに強く引かれるべきである。
しかし、画家としての私の仕事には、勿論、絵画として造型される対象という意味で、京都のほうが把握し易く感じられたのである。 日本の美の最も洗練された現れは、やはり京都である。
 万葉の歌は、長い年月の流れを超えて、現代の私達と同じような人間の生きた心を感じさせるが、大和路に遺る数知れぬ古墳からは、遠い世の鎮魂曲が重々しく流れ漂い、その幽明の底には解き難い謎が潜んでいる。古い寺や仏像には、日本的というよりも、甚だエキゾティックなものさえ感じる。
~略~
(初出「芸術新潮」昭和48年10月号) 「奈良にて」より部分抜粋 東山魁夷

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P157

DSC_1140M (Small).JPG

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仏像 [見仏]

さて、みなさん、喜びも楽しみも悲しみも怒りも、すべての感情や心身のバランスを完全にコントロールしきった顔って、どんな顔だと思いますか?想像できますか?それは仏像のお顔です。あの顔、あれは仏教の理想を端的に表現しています。
~中略~

 仏像は大別して四つくらいの機能を発揮していると思われます。
 ひとつは<①信仰の対象>です。そもそも仏像は、仏教の大衆化に沿って発達してきました。人々の宗教的熱情が投影されたものでもあるわけです。仏像と対面すると、スピリチュアルな関係性が共振現象を起こすこともあります。~略~
 ふたつ目として、<②修業の補助>という機能があります。仏教はイマジネーションの修業がすごく豊富です。中でも「観想」という「仏の姿」や「浄土のありさま」を観るトレーニングは重要です。その手助けとして仏像や荘厳(この場合は、仏像のまわりにあるさまざまな飾りつけ)を活用するのです。~略~
 さらに<③教えやメッセージの象徴化>という機能があります。仏像の姿勢、手の形、視線、持ち物、脇時から台座や光背に至るまで、さまざまな教えや意味を象徴的に表現しています。~略~
 そしてもうひとつクリエイター自身の<④霊性の発現>という意味があると思います。古来、自分自身の内面から溢れ出す宗教性を創作へと向ける人は数え切れません。
円空上人や木喰上人などによる造形は、まさに霊性の発露といった趣です。また仏師さんが「私が仏を彫るのではない。材料の中にもともとおられる仏様を出すのだ」などと言うのを聞くと、宗教と芸術は通底していることをあらためて確認することができます。

いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P305

DSC_6254 (Small).JPG  犬飼石仏

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見仏 [見仏]


 本堂の奥がそのまま宝物館になっているというベストな構造の文殊院では、内陣の奥に大きな扉が見え、その向こうにあの夢にまで見た獅子乗りの文殊が出る。

見仏記ガイドブック
みうらじゅん(著), いとうせいこう(著)
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/10/19)
P28


DSC_5765 (Small).JPG

安倍文殊院

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邪鬼 [見仏]

 私は、仏教芸術の単調さをやぶるものは、むしろ邪鬼にあるのではないかと思う。
邪鬼の「痛テエヨォ、痛テエヨォ」という声により、本堂にただよう、神秘的で厳粛で、単調な静けさが破られ、そこから芸術に欠くことの出来ない自由とユーモアとが出現するのである。しかめ面の詩人、島崎藤村でさえ、「ユーモアのない一日は耐えがたい」といったそうであるが、われわれが、仏教芸術における唯一のユーモアの源である邪鬼を所有しなかったら、われわれは仏教芸術の単調さに耐えがたかったかもしれない。
邪鬼をふみつける四天王にも、この邪鬼の自由とユーモアがいくらか伝染しているのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P131



DSC_5383 (Small).JPG滝ノ観音寺

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愛染明王 [見仏]

 愛染明王は空海がはじめて請来した金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経一巻によって作られたもので、人間の愛欲などの煩悩が菩提心、即ちほとけの心に通じるものであることを教えるものである。
愛の神であるキューピットのもっている弓と矢をこの明王ももっていることは、東西の愛の表現の根源が一つのものであったことを示す。
 仏教は禁欲の宗教であると考える人も多い。しかしそれは悟りへの厳しい道程における戒律の一つとしてきめられていることである。
人間の理想的境地を自覚する宗教としての仏教は人間を否定するような禁欲に徹したものではないと考えられる。そこから即身成仏の考えが出発するといってよい。
知性も本能も円満に発達した人間の正しい生き方に徹するのが即身成仏への道である。愛染明王像はこの意味を象徴しているのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P87

DSC_5369 (Small).JPG滝ノ観音寺

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虚空蔵菩薩 [見仏]

 仏教の菩薩としては、上述の四尊(住人注;弥勒・観音・普賢・文殊)の他に重要なものといえば、大地と空との恵みを象徴した地蔵と虚空蔵の両菩薩がある。~中略~
虚空への信仰は星宿、日月の信仰とも関係をもつものであり、大日如来の信仰とも関係をもつものである。そのために虚空蔵菩薩の性格は理性的な面を多分にもっているといいうるのである。
 この虚空蔵菩薩は既に奈良時代から知恵のほとけとして信仰されており、既に奈良時代には僧道鏡も虚空蔵求聞持法を修していたことが知られている。また弘法大師も入唐以前にこの法を修していたことが伝記によって知られる。
弘法大師の虚空蔵信仰は深かったものとみえ、金剛峰寺講堂にその像を安置していたことが知られ、またその思想を体系化した五大虚空蔵菩薩図を弘仁十二年に描いているのである。神護寺の五大虚空蔵菩薩像(→四八ページ)は弘法大師の歿後あまり時代を経過していない時期の作品として著名であり、東寺(教王護国寺)山内の観智院には恵運が請来した五体の尊像が本尊として安置されている。
 広大にして、無辺な虚空に対する哲学的解釈はインドにおいてはさまざまに考えられている。
又、その考えを根底としたほとけも成立するのである。それが虚空蔵菩薩である。
蔵とは大宝あり、自在にこれをとり、貧乏を受けざらしむ」といっている。そのために、この尊は大日如来の福智の二徳を司るとされている。又他の経典では虚空蔵菩薩を金剛界の大日如来、地蔵菩薩を胎蔵界の大日如来の変化身とすると説く説くものもある。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P50



DSC_5361 (Small).JPG滝ノ観音寺

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毘沙門天 [見仏]

 毘沙門天信仰がどこで成立したか明らかではない。しかし西域の和闐(コータン)で盛んに信仰されていたことは事実である。
ここは須弥山に擬せられたヒマラヤ山系の北側にあるために、北方の守護神である毘沙門天がこの地の守護神として信仰されるようになったと考えられている。
この信仰は王城の門を守護する神としてもとりあげられるようになったと考えられている。
それは唐天宝元年(七四二)に敵軍に包囲された西域の安西都護府に、毘沙門天が不空三蔵の祈祷によって出現し、敵軍を四散せしめたという伝説によるのである。
毘沙門天出現の直前には幾万とも知れない鼠が現われて、敵の弓の弦を噛み切ったと伝えている。
その伝説から、西域地方ではそれ以後に鼠をもった毘沙門天像が作られているのである。~中略~
 さて平安時代に単独に作られた毘沙門天像を求めてみるならば、さまざまである。その最初のものはといえば、唐からもち帰ったとみられる東寺食堂安置の兜跋毘沙門天像(→一一一ページ)である。
この尊像の武装は異様である。それは中国的なものではなく、西域風であり、和闐にはこれに似た服装の壊れた像がはっけんされているのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P117



DSC_5373 (Small).JPG滝ノ観音寺

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新しい時代を望む弥勒菩薩 [見仏]


 広隆寺の弥勒菩薩は何を考えていられるのであろう。深く世界と自己を見つめているようなうつむいた眼、明晰な知性を示しているかのようなすじの通った鼻、そして慈悲と喜びにあふれた口もとの微笑、仏像全体から何ともいわれぬ清潔感と神秘感がただよってきて、多くの人を詩人か哲学者に化すのである。
~中略~
 いったい、何を思惟し、何を考えていられるのか、われわれは、すでに望月先生から、弥勒の本質について話を聞いた。
それは五十六億七千万年の未来に、この世に出現して、釈迦によって救済されなかった衆生を救済する仏なのである。
この未来の仏、弥勒は、現在では兜率天という浄土にいて、未来の理想の世界について思いをこらしているのであるという。
してみるとあの弥勒菩薩は、五十六億七千万年の未来に来たるべき理想の社会を、兜率天という所で、じっと考えていられる姿なのである。
 未来の仏、弥勒菩薩。仏教では未来を示す仏はこの弥勒だけであろう。
阿弥陀も、われわれが未来にゆくべき極楽浄土を支配する仏であるが、阿弥陀は死者を迎えに来るのみで、この世に王国を作ろうとする野心はない。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P28




DSC_5358 (Small).JPG滝ノ観音寺

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須磨寺 [見仏]

 私は、はじめて須磨寺というものをみたが、ひどく想像とはかけはなれた寺だった。
「そうでしょう」
と小池さん(副住職の小池義人氏)は笑いながら、
「どなたも、始めてこられた方は、そうおっしゃいます。きっと奈良の郊外にあるようなものさびた古寺を想像されていたのでしょう」
 堂々たるガランなのである。宗教活動をすでに停止してはるかな歴史の遺物と化してしまっている大和の古寺とは、まるでちがう。
 遺物には、遺物のうつくしさがあり、古格があり、みずみずしい詩があるのだが、私の想像ではとっくのむかしにそうなっているはずの古寺須磨寺は、まるできのうきょうの新興宗教のようになまなましく息づいている。

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P58



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須磨寺

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比叡山 [見仏]

 叡山というのは、ゆらい、政治的現象に敏感でありすぎたようである。すくなくとも、越前永平寺にくらべればこれはわかる。
中世末期までの宮廷政治の裏面にはかならず叡山の黒い影がみられた。そうした延暦寺の政治への過敏さに対して総決算を強いた人災は、元亀二年の織田信長の延暦寺焼討であったように思われる。
 信長という人物が日本歴史に果たした役割は、なんといっても中世の体系と中世的な迷妄を打破して歴史を近世に導いたところにあったろう。
この人物は、不条理や不可知なるものを並はずれて憎悪した。その点ではあるいは異常性格者であったかもしれない。
彼は叡山が、仏法の精舎たることをわすれて武力を貯え政争に容かいする不条理を憎み、火を放ち衆徒を殴殺して地上から延暦寺のすべてを抹殺することを考えかつ実行した。
この時以来、叡山は半ば衰退し、そのまま数世紀を経てこんにちに至っている。

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P104

DSC_9270 (Small).JPG延暦寺

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泉涌寺 [見仏]

   私はどうやら思いちがいしていたらしい。仏像彫刻が一定の形をとっているのは、それぞれの儀軌もさることながら、仏師たちにそれ以上のリアルな表現がなしえかったからではないか、と思っていたのだが、この(住人注;泉涌寺即成院の阿弥陀像を中心に、歓喜しつつ奏楽して、その来迎に従っている)二十五菩薩をみるかぎり、これは完全に間違いだった。
彼らは表現できないのではない。しなかったまでのことなのである。たまたま自在な表現を許されれば、かくもみごとな歓喜奏楽の図を作りあげてしまうのだから。

 残念なことは二十五菩薩はすべて藤原期そのままではない。かなり部分的後補もあるし、なかば、以上は全く新しい近世の作である。
近世の仏師たちは、さすがに藤原期の柔軟自在の表現をそのまま踏襲する技術はもたなかったのか、いわゆる型にはまった菩薩像に変えてしまっている。
そしてそのことが、ひときわあざやかに古像のみごとさを浮かび上がらせているのは皮肉である。
永井路子
(初出「京都御寺 泉涌寺展」朝日新聞社 昭和47年刊) 「静寂への巡礼―泉涌寺」より部分抜粋

名文で巡る京都―国宝の寺〈1〉東山
白洲 正子 白洲 正子 (著) 大庭 みな子 (著) 杉本 秀太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)
P236 

http://www.mitera.org/

DSC_6023M (Small).JPG泉涌寺

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タグ:永井路子
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修業験得 [見仏]


筆者は以前山伏の人たちとよく山に分け入り、その修行を時折り観察させてもらった。積雪の中の寒中行は、自分自身厳しさを体得したが、その中で山伏たちの滝行には異様なものを感じた。素裸の行者の体から白い煙のようなゆげが立ちのぼる様は、信仰というものがなくては出来ないわざであった。
~中略~
 あるとき、一四、五人の山伏たちに同行し、野宿の一泊行に山に入ったことがある。これは一つの集団の修行で、若い山伏に種々なものを初体験させるものであった。
~中略~
 目的の山中の洞窟に着くと、先逹は腰に巻いていた白い布をほどき、それを木々にゆわいつけ、ただちに神々や諸仏をその白布に勧請した。やがて一行はその前で勤行を始めた。
勤行が終わると、同輩の一人の山伏は気分が悪いと横に臥した。他の山伏は、早速降霊術で物怪(もののけ)を取り払った。すると臥していた山伏は気分がよくなったといって起き上がった。
 またあるとき、二人の行者が求菩提山の山頂で一週間の断食行に入った。この間、般若心経を一万巻奉唱した。一日目はそでほど疲労をみせなかったが、二日目から疲労の度が増し、心経の奉唱のスピードがやや落ち、三日目が疲労の最高潮で、夜になると行者たちの耳に何か聞こえるものがあったという。また目の前のお堂が真っ赤になって焼け落ちるようであったともいう。四日目の朝、夜が明けるとさわやかな気分になり、小鳥の声を聞き、朝日が樹木の中からだんだんさしこんでくると、まるで浄土のようであったという。
~中略~
 山伏の行う修験とは、「修業験得」といい、修行の中で「験(しるし)」を得るということである。その験とは、前述のようなものを言うのである。したがって、霊を信じ仏を信じるのである。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P131

DSC_4674 (Small).JPG求菩提山

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タグ:重松 敏美
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律院 [見仏]

   「律」というのは僧侶の生活規範のことで、その律をもって専門的に成立している寺をどの宗旨(天台宗、真言宗、浄土宗)でも律院という。
カトリックにおける修道院のようなものである。修道院がそうであるように律院というのは寺の建築にも余計な装飾がなく、建物の規模も小さい。
ただ境内が嵐気を帯び、ちりひとつとどめず、全体が凛然としていて、むろん観光料はとらないという点でいずれも共通している。
たとえば浄土宗の律院は谷崎純一郎氏の墓のある京都の法然院で、法然院に入れば山内の空気が緊張していていかにも律院というにふさわしい。

街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P235

 

一乗寺 国宝三重塔 (1).JPG

一乗寺

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薬師寺院堂聖観音 [見仏]

わたくしはきのう聖林寺の観音の写実的な確かさに感服したが、しかしこの像のまえにあるときには、聖林寺の観音何するものぞという気がする。
もとよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生とと同じではない。 一個の人を写さずして人間そのものを写すのである。
芸術の一流派としての写実的傾向ではなくして芸術の本質としての写実なのである。
~中略~
もし近代の結紮が一個の人を写して人間そのものを示現しているといえるならば、この種の古典的傑作は人間そのものを写して神を示現しているといえるであろう。

古寺巡礼
和辻 哲郎 (著)
岩波書店; 改版 (1979/3/16)
P171

photo_hotoke_seikannonbosatu.jpghttp://www.nara-yakushiji.com/guide/hotoke/hotoke_toindo.htmlより引用

DSC_5768M (Small).jpg聖林寺

DSC_7429 (Small).JPG薬師寺

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中宮寺菩薩半跏像(寺伝如意輪観音) [見仏]

シナやインドの独創力に比べて、日本のそれは貧弱であった。しかし己を空しゅうして模倣につとめている間にも、その独自な性格は現れぬわけに行かなかった。
もし日本の土地が、甘美な、哀愁に満ちた抒情詩的気分を特徴とするならば、同時にまたそれを日本人の貴禀(きひん)の特質と見ることもできよう。
「古事記」の伝える神話の優しさも、中宮寺観音に現れた慈愛や悲哀も、恐らくこの特質の表現であろう。
そこには常にしめやかさがあり涙がある。その涙があらゆる歓楽にたましいの陰影を与えずにはいない。 だからインドの肉感的な画も、この涙に濾過される時には、透明な美しさに変化する。

古寺巡礼
和辻 哲郎 (著)
岩波書店; 改版 (1979/3/16)
P247

DSC_7391M (Small).JPG中宮寺

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夢違観音 [見仏]

夢違観音はいわゆる天平前期にあたる作であるが、この像の持つ美の要素には十分注目すべきものがあり、日本美の特質を深く包蔵している。わずか二尺八寸余の小像であるが古来世人の恭敬愛慕絶ゆる事なく、悪夢を善夢とかえてくださる御仏として礼拝されて来たという。
そういう伝説に値する美が確かにある。この像には既に大陸の影響が充分消化せられて、日本美独特のものが備わっているが、前に述べた清らかさ、高さ、精神至上、節度というようなものに加え、更に疑念なき人なつこさの美がある。これが大和民族の本能から来ているところに意味がある。
(初出「婦人公論」昭和17年9月号)
高村光太郎

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P112

P1000134 (Small).JPG

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タグ:高村光太郎
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不動明王 [見仏]

  不動明王は、古代ドラヴィダ人の富者が何人も召しかかえていた少年給仕をかたちどっている。
かれら給仕たちは使者として密林を切り分け、毒蛇や猛獣を退治しつつ遠くへゆき、もどってくる。~中略~
 この不動明王の目的は、修行する行者を守ることにある。行者に給仕し、行者をしてなすべきすべてをなしとげさせ、ついには大智恵を得させて成仏させるはたらきをもつ。
日本においては仏教伝来以前から山岳信仰があり、渡来後、修行者はしきりに山にのぼって修行した。つねに不動明王がつき従った。行者が成道して里におりてもこの明王をまつったために里人もまた尊崇するようになったにちがいない。
(初出「アサヒグラフ」臨時増刊 昭和58年3月20日発行)
「密教の誕生と密教美術」より部分抜粋
司馬遼太郎

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P231

-6cb2e.jpg熊野磨崖仏

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南円堂 [見仏]

 それにしても、何故、西国巡礼の霊場はこういうところばかり選ばれたのだろう。
すぐ近くの三月堂には、天平時代の不空羂索観音があり、奈良の付近には、法華寺、薬師寺、法輪寺、法隆寺、聖林寺と、優れた観音がたくさんある。それらが選に洩れたことは、惜しい気持ちがするが、それにはおそらく理由があったにちがいない。 考えてみれば、今あげたような仏像が有名になったのも、美術鑑賞が発達して以来のことで、昔は作のよしあしより、信仰の方が先に立ったためもあろう。
特に巡礼の場合、お寺が有名なことが条件だが、どんなに美しく、信仰を集めた観音でも、格が高すぎるお寺では、近づきにくいという欠点があったかもしれない。
そういえば、この南円堂にしても、興福寺という、甚だ貴族的な大寺の一部であるとはいえ、藤原冬嗣は、弘法大師のすすめにより、一族の守本尊だった観音を、一般民衆に開放するため、新たに造ったお堂であるという。~中略~
信仰を無視して、仏像を鑑賞するのは間違っているという説があるが、私は必ずしもそうは思わない。少なくとも、観音信仰に関するかぎり、もっと鷹揚(おうよう)で、何でも受け入れるといった寛容なものがあり、どこから入って行こうと許されるのだと思う。
そのむつかしさは「狭き門」にはなく、広すぎるところにあるのかも知れない。  ようするに、感動することが大切なのだろう。が、感動することはやさしく、それを何らかの形にとどめることはむつかしい。
(初出「巡礼の旅」淡交新社 昭和40年3月刊)
白洲正子

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P183

DSC_1111M (Small).JPG

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平成 仏像ブーム [見仏]

P6
仏像ブームだという。確かに書店へ行くと、仏像に関するさまざまな本や雑誌が驚くほどたくさん並んでいる。実は、仏像ブームは周期的にやってくる。
前回の仏像ブームが起きたのは、昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックのころだった。
昭和四十年(一九六五)に出版された「仏像 心とかたち」は大ベストセラーになったが、これはNHKテレビで一年間放送された「仏像―かたちとこころ」を書物にまとめたものである。
出版にあたり、副題を「かたちとこころ」から「心とかたち」へ変更したところに、執筆者(望月信成、佐和隆研、梅原猛)の心の深化が感じられるが、梅原はいきなり次のように挑発する。
 仏像ブームは果たして健康な文化の証拠であろうか。それは結局、現代という極端に機械化され、組織化され、合理化された世界から逃避し、何となく深淵で孤独な美と宗教のムードにひたろうとする、精神の逃避ではないか。(住人注:P9)
 高度経済成長期の気分がよく感じられる文章だが、梅原はそのようなムードばかりの仏像ブームを否定し、仏像を造った日本文化、仏像を造った日本人の心を明らかにし、それが現代の日本にどのような意味を持ちうるかを考えようとする。それは仏像にこめられた心を、現代を生きる私たちの立場で、もう一度考え直してみようということだった。
 それゆえ梅原は、仏像へのそれまでのアプローチを批判する。批判を受けたのは、和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」のように、仏像を対象として叙事詩を綴る方法、そして仏像の様式論だった。
前者の主観的感動は、仏が持つ客観的な意味と食い違うことがあり、形を形としてのみ見る後者は、現代を生きる私たちにはほとんど何も語りかけない。梅原はこのように主張した。それから五十年。私たちは仏像とどのように向き合っているのだろうか。

P7
 仏像は注文制作である。注文するには必ず理由があったはず。元気いっぱい幸せいっぱいの人が仏像を造らせたりはしない。大きな悲しみや苦しみ、あるいは何か深い祈りがあって、仏像は造られる。
 四年前、東京国立博物館で開催された「国宝 阿修羅展」には九十四万人もの人々が訪れた。しかし、そのうち何人が阿修羅像が造られたわけを知っていただろうか。
~中略~

 このように仏像には、造らねばならなかった悲しみや切なる想いが込められているものである。東日本大震災の際に、亡くなった人々の冥福を祈って、津波で倒れた松を用いて仏像が彫られたように、仏像には造る段階で想いが込められ、造られてからも思いが込められ続ける。
苦しみ悩み悲しみながら仏像に会うと、仏像に込められた過去の同じような苦しみ悩み悲しみが、やさしく胸にしみてきて、自分はひとりじゃないと思えるようになるのかもしれない。
 日本の仏教は悟りをめざしていない。人々が仏教に求めるのは、やすらぎ(安心(あんじん))だと思う。金子みすゞは「私がさびしいときに/仏さまはさびしいの」と書いていたが、たぶんそのことが深いやすらぎを生むのだろう。

 いま、なぜ仏像ブームなのか。五十年前の高度経済成長期とは異なり、物の豊かさよりも心のやすらぎを求める人が明らかにふえている。そういう人たちが仏像を発見したのだと思う。みほとけの心とかたちが、多くの人たちに心のやすらぎを与えている。
(にしやま あつし/奈良国立博物館学芸部長)
「みほとけのかたち 仏像に会う」図録

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室生寺 [見仏]

 もっとも室生寺を弘法大師にむすびつけるのは、学問的根拠がないといわれる。多分江戸初期に室生寺の大パトロンであった桂昌院(五代将軍綱吉の生母で大の仏教信者)と護持院隆光の作意によるものであろう。

 それはともかくとして、室生寺は寺伝にいう女人高野の名にふさわしく、可愛らしく、華やかな寺である。伽藍も仏像も神秘的で、しかもあやしい色気がある。深山の杉木立に咲く山桜にもたとえられようか。

土門拳 古寺を訪ねて―奈良西ノ京から室生へ
土門 拳
小学館 (2001/09)
P144

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解像力 [見仏]

使ったのは国産のアートビューという4×5判カメラである。つまり横4インチ縦5インチのフィルムを使う大型カメラである。
ライカM3とかニコンのような35ミリカメラは、もっぱらスナップ用で、万やむをえない場合のほか仏像や風景には絶対に使わない。
理由は簡単だ。フィルムサイズが大きいほど、解像力が強いからだ。
もちえろん35ミリ判でもらくらく全紙判とか全紙倍判に引伸しできる。だから、襖半分ほどの大きさの見事な引伸し写真を見れば、それよりも小さいB5判の雑誌B4判の写真集に印刷するのに、何の問題もないように見える。
しかしぼくの長い経験では、ストレートの引伸し写真と網目の引伸し印刷とでは本質的にちがう何かがあるようだ。
らくに全紙判に引伸しがきく35ミリ判のネガでも、印刷の網目に堪えるとは限らない。線がくずれて、描写の鮮明さが失われるのだ。

土門拳 古寺を訪ねて―奈良西ノ京から室生へ
土門 拳
小学館 (2001/09)
P79

IMG_0031 (Small).JPG大谷山荘

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何を見るにしても、ある時間と手つづきが要る [見仏]

 それにひきかえ、最後に夢殿へ行った時のことはよく覚えている。東大寺観音院の上司さんと、佐々木茂索さんがいっしょだった。お二人ともなくなられて久しいから、十五、六年は経つだろう。
度々拝んだ仏さまなので何の気なしに厨子の前に立ったが、扉が開かれたとたん、私は思わず泣き出してしまった。

こんなことを書くのはまことに羞しい話で、同行の方Tたちに対しても失礼に当るが、何としても涙が止まらない。涙はやがて嗚咽(おえつ)に変って、私は当惑した。お二人もびっくりされたに違いないが、本人はもっとびっくりした。あれはいったい何だったのだろう。何のための涙か。今そのことについて考えてみたいと思うのだが、巧く言えそうにない。

単に美しいとか、神秘的とか、崇高だなどといってみてもはじまるまい。感涙に咽(むせ)んだのは事実だが、そんな言葉で片づけたくはない。何かとてつもない力に打ちのめされ、縛りつけられて、身動きができなかったという感じである。
依然として、巧く言えないことに変りはないが、「仏を見る」とはそういう心身の状態をいうのではなかろうか。
仏でなくても、何を見るにしても、ある時間と手つづきが要る。

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P13
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土門拳 古寺を訪ねて [見仏]

 前略~
 戦中、戦後、関西のお寺の写真を撮りに行くときも、何もいわず撮影の荷物をまとめて出てゆく。家中のお米もお金ももっていってしまうし、勝手なもんです。 一度出ていくと一週間なんか短いほう。帰って現像して合点がいかないと、またスーッといなくなるの。

口の悪い人に「あれだけたくさん撮りゃ、中にはいいものもあるさ」なんていわれたけど、こっちは「なんぼ撮ってもいいのがない人もいるわ」ってね。それでいて家族の写真はフィルムがもったいないと1枚も撮りませんでした。
 とにかく仕事のことになると夢中で、お弟子さんたちがお腹が空いてへなへなになっていても、自分が写しているあいだは「おい、何してるんだっ」なんて怒るの。
好きなことにかけては、人が騒いでいようと泣いていようと、耳に入らない目に入らない。
何でも凝ってしまうから、いつも予算オーバーというか、予算なんて初めからない。~後略
土門たみ

土門拳 古寺を訪ねて―奈良西ノ京から室生へ
土門 拳
小学館 (2001/09)
P194

DSC_7234 (Small).JPG2008.05 室生寺

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大野寺磨崖仏弥勒菩薩立像 [見仏]

 弥勒仏が彫られた承元元年といえば、東大寺大仏殿の再興なって五年目であり、その前年には俊乗坊重源は没しており、東大寺再興工事が一段落を告げたうえ、大なる理解者が死んでしまったので、重源が宋から招聘した宋人石工などは、途方に暮れていたことであろう。

弥勒石仏のような大工事には当然それらの宋人石工の技術が動員されたと思われる。その大味な螺髪やしなやかにしてねばっこい線刻などには何か異国的なものが感じられる。
大野寺磨崖仏は、いわば七百五十年以上前の日中文化交流の一大記念物でもあるわけである。

土門拳 古寺を訪ねて―奈良西ノ京から室生へ
土門 拳
小学館 (2001/09)
P125

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臼杵 [見仏]

それにしても、この豊後国の山奥に弘仁、藤原、鎌倉と数百年にわたって巨大な石仏群をつくったものは何か。それは仏教に対するあつい信仰であろう。
しかしその信仰を生み、信仰を必要としたものは何か。ぼくはそれを石仏群のそもそもの発願者と伝えられる「真野長者夫妻像」のうずくまる姿そのものが語っていると思った。

古寺を訪ねて―東へ西へ
土門 拳 (著)
小学館 (2002/02)
P180

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三徳山三仏寺投入堂 [見仏]

奈良、京都と古寺巡礼を続けて、数十の名建築を見てきたが、投入堂のような軽快優美な日本的な美しさは、ついに三仏寺投入堂以外には求められなかった。
わたしは日本第一の仏像は?と問われれば、銅造ならば薬師寺東院堂の聖観音立像、木造ならば神護寺混同の薬師如来立像をあげることは予(か)てからの持論だが、日本第一の建築は?と問われたら、三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないであろう。
ほかに塔ならば薬師寺三重塔、楼閣ならば平等院鳳凰堂をあげなければならないが、三重塔や鳳凰堂は見飽きないともかぎらない。
しかし簡素な素木造りの投入堂は、周囲の懸崖の季節、時間の変化と相まって、見飽きる虞(おそれ)はなさそうである。~中略~
 ただ投入堂を眺める場所に到達するのが容易でないだけである。

古寺を訪ねて―東へ西へ
土門 拳 (著)
小学館 (2002/02)
P158

http://buzzmap.so-net.ne.jp/onoki/spot/138452鳥取県東伯郡三朝町三徳1010
三徳山三仏寺投入堂

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写真を撮るのは格闘技である [見仏]

 写真を撮るのは格闘技である。知的体力というそれ自体矛盾を孕んだ力で相手をにじ伏せなければならない。
それがそのまま仏像の美を欠けるところなく受け入れ、跪拝し、同化することになる。そういう切迫に耐えるものだけが画像として残された。
(いけざわ なつき)

土門拳 古寺を訪ねて―斑鳩から奈良へ
土門 拳
小学館 (2001/07)
P195 

-7befd.jpg三徳山三佛寺 国宝投入堂

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円空 [見仏]

 円空については、いままでいろいろなことが言われてきました。どういうわけか円空を研究するのは民間の学者ばかりで、アカデミズムに は円空の研究者はほとんどいません。
ほかの仏師について研究者はいくらでもあるんですよ。例えば定朝、運慶、快慶、彼らについてはアカデミズムの研究者はたくさんいますが 、円空についてはほとんどいない。
~中略~

円空は、現代の芸術家に嫉妬を感じさせるような仏像、神像をたくさんつくった。ところがその円空がアカデミズムには研究者がいないという 妙なことになっているんです。
 それはなぜか。定朝や運慶、快慶は時の権力者に認められて、彼らの要請によって仏像をつくった。だから、中央で認められている。円空は、中央で認められなかった。
地方の人に愛されたんです。特に飛騨の人には大変愛された。

梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)
P221

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臼杵石仏山王石仏

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